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儚い夢と現実の思い

人間が人間らしく生きるのは、もう不可能なのだろうか?機械の導入は便利だけれどお金がかかる。今より便利な生活を望めば余計お金がかかる。これだけ便利、効率、利益追求、経済優先だとお金の価値が高まるのは当然のことだろう。かくして格差は深刻になる。

個人のレヴェルで済む話ではなく、国家レヴェルになってくると国が豊かになるためには資源がいる。国にとって資源はお金であり、豊かになるために争奪戦がはじまる。自分の国だけ豊かになりたいから、自然の破壊に対して良心の呵責もないし他の国の幸せは眼中にない。

個人でも国でももう少し他に対する思いやり=他を自分のこととして想像できる能力、があれば、世の中とても変わってくると思う。私が習っているスピリチュアリズムはこれをすごく強調する。全体はワンネスで全てのことは自分と関係あることと受け止める。この実現は儚い夢なのか?

自然はいつも神秘的。

自然はいつも神秘的。

全く話はそれるけれど、もし日本でもう一つ、原発が事故を起こしたら小さな日本、安全に食べられるものが、しばらくはなくなってしまうだろう。いくらオスプレイを配備してもまた安保法制を変えたところで、本当の危険な状態になったら米、中、ソ連のどこが早く「ボタン」を押すか、の問題になりその他のことは何の意味も持たなくなってしまうだろう、と考えるのは過激すぎるかしら。

とりあえず今自分にできることは、自分の思う正義はしっかり守り自然を大切に思い、他の人の問題も自分のこととしてできるだけ受け止める(人間ができている訳ではないので100%は無理)ことである。もう一つ、「天は見てござる」「魂は永遠で死に逃げはできない」ことを心に刻み、死ぬまでしっかり生きようと決意している。

社会情勢についての雑感(2)

この前から今日までに、ますます世界はキナ臭くなった。やられたらやり返す、より強い武力や権力を持ったものが弱者を容赦なく押しつぶす。(政府が沖縄に対してしていることも大して変わりないように感じる)本当は宗教とか哲学はこのような、実は人が持っている野獣性をコントロールするものとして出てきたのではないだろうか?「憎しみからは何も生まれない」とおっしゃった後藤さんのお母様の深い言葉を大事にしたい。

旧ソウル駅の夜の風景

旧ソウル駅の夜の風景

どう考えても今の風潮は、経済やお金が「どう生きるか」を決める要素になっていて本末転倒の様な気がする。本当は「どう生きるか、どういう社会にするか」が経済やお金を動かすのではないのだろうか?お金がないから年金を減らし、介護も手薄にして税金を上げたら殺伐とした社会にならないだろうか?武器を作って売ることは、それがどの様に変化して「積極的平和」に繫がるのだろう。「風が吹いたら桶屋が儲かる」的なことならそこをきちんと説明して欲しい。怖いのは大して国民的な議論もなく、いつの間にか殺人に手を貸す国になってしまったことだ。

毎日毎日、日本でも理由なき殺人のニュース。「吉信ちゃん事件」でショックを受けていた頃がなつかしい。「人生の目的は何かを成し遂げることではない。生き抜くことである」と知ってよかった。どんな状況であろうと、自分が置かれたところで精一杯、心の中の良心(或いは神ともいう)の声に従って生きていこう、と決心は余計固くなった。

社会情勢についての雑感(1)

とうとう最悪の結果になってしまった。言葉にならない程悲惨な結末だ。後藤さんは身をもって紛争地域の状況を私達に教えてくれた。本当は他の国のジャーナリストが同じめにあっていた時にピンとこなければいけないのに、同じ日本人がこのような目にあい始めて身につまされるのは情けないことだけれど。。。

韓国の世界遺産の王宮の壁

韓国の世界遺産の王宮の壁

新聞と同じことを書いても意味ないので、他の視点で見てみようと思う。一つは社会学的に。人を結束させるのはとても難しい。だが簡単な方法がある。その一つは外部に「敵」を作ること。共通の「悪」(ほとんどは幻想だが)を作ると防御本能も働き仲間意識が芽生える。団結するには強力な敵を作り出す必要があるが、そのためには実はそのグループ自体が極端に強い思想を持つ必要がある。「自分達は絶対的に正しくて、他は全く認めることができない」という思想。過去にはナチスがそうであった。

今世界を見てみると、過激な思想を持ったグループが沢山ある。それぞれ極端なのでそのうち対立、分裂も起こり始めるだろう。その流れの中で共通の明確な「敵」を作りだしてはいけない。「自分は『敵』です。」と名乗り出てなんの得があるのだろう。自分の正義感を満足させるためだけだったとしたら、その代償は余りにも大きかった。日本人のこれからの未来に深く関わってくること。この事件をもって、世界の動きは日本人も一つ一つ自分のこととしてとらえなくてはいけなくなった。今までも、そうでなければいけなかったのだけれど。もう一つの視点は次のブログで。

日本で女性が活躍するには(2)

日本がこれから発展するには、というか滅びないためには、やはり次世代に活躍してもらわなければならない。日本から子供が消えてしまってはどうにもならない。現状は女性が社会的に活躍するためには、若いうちにある程度キャリアを積む、或いは専門性を身につけるための勉強が必要で30歳代以降の結婚になり、20歳代で結婚するより子供の人数も少なくなってしまう。また仕事をとったために結婚、子育てをあきらめると言う方も少なくない。

夕暮れの風景

夕暮れの風景

女性が社会的に活躍できてかつ子供を生み育てるのに支障がないようにするには、どうしても子育ての時期に社会的キャリアを持続させる必要がある。これは託児所を充実させるとか、祖父母が協力するだけではどうにもならないことで、例えばネットを駆使して会議に参加する、家でできる仕事にしてもらうなど会社の配慮や男性の認識のチェンジが必要になる。

一番女性の不在を感じるのは国政で、勿論一生懸命仕事している方はいるのだろうけれど、女性の立場を代表した政策を打ち出した方は記憶にない。経済優先の社会、「地獄の沙汰も金次第」の風潮で、政治家としてよりも母性を基調とした「慈愛」を感じる政策を求めるのは「甘い」ことなのだろうか?「甘い」と言えばこの世界的情勢の中でわざわざ紛争地域に行って、刺激するような発言を平気でする方の感性こそ私は「甘い」と思う。

日本で女性が活躍するには

イエスが生まれた日からお祝いするキラク流クリスマス。

イエスが生まれた日からお祝いするキラク流クリスマス。

日本では特に、女性が自立して活躍するのは難しいと感じる。例えば会社でキャリア候補生に選ばれたとする。結婚して、配偶者が転勤族だったらもう壁にぶつかる。余程会社が大きくて全国各地に勤めることができる支店があれば話は別だけれど。。。子供が授かると話しはもっとややこしくなる。実際私の知人の娘さんで、自分が東京の出版社に勤務、ご主人は転勤族で子供ができてどうにもならなくなり、知人である親を頼って同居、つまりご主人とは一緒に住めない、という方がいた。

知人は娘夫婦を助けるべく、ご主人と孫の世話をしているので娘さんの職業歴は守られているが、知人が高齢になるに従ってこれも万全な策とも思えない。子供の手がかかる一時だけ、と言ってもうちみたいに三人男の子となると、手のかかる時期が10年近くに及ぶ。(やはり女の子がいるとお母さんは助かるなというのが実感である)

日本の女性が結婚後もきちんと社会で活躍するためには、周りの人も含めた事前の話し合い、会社の視点の転換、安心して子供を預けられる制度、施設の充実が不可欠だと思う。女性の視点が必要だと思うところが政治や社会の大事な部分で沢山あるので、どうも根強い「女性は社会では男性のアシスタント」の考え方を変えなければ何も変わらないだろう。

最近「専業主婦」希望の女性も多いそうで、それはそれで結構だと思うが、経済的な「逃げ」ではなく専業主婦の立場から世の中に何か発信する社会性を持って欲しいと切に思う。

反転する理論

若い頃は物事の筋道は単純で一つしかない、と思っていた。例えば、戦争は酷く非人間的なことなので絶対しない。銃は危ないので持たない。ところがいつの間にか、相互不信による理論が勝ってしまった。相手が核のボタンを押さないように、自国も核を持つ。銃で撃たれないように自分も武装する。これはやられたら、すぐやり返すという「ハンムラビ法典」の考え方とあまり変わらないのではないだろうか?

対極の考え方は「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」だろう。しかし現代では本当に実行したら、自分が怪我するだけで相手に何の感銘も与えないということもありえる。

どうすればいいのだろう。ガンジーは非暴力を貫いた。ネルソン・マンデラは自分が受けた不条理な迫害に対して、一切恨みごとも言わなかった。どうやら世界がうまくいくヒントは「自分は武器を持っている」と相手を脅すことではなく、「自分は何があってもあなたを大事にする」と宣言しそれを実行することではないのだろうか?一口に言うのはたやすいけれど、実際に行うのは至難の技。それをなし得た二人はだからこそ偉大なのだろう。

夕焼けお空はいつも美しい

夕焼けお空はいつも美しい

3.11に思う

うちの近くの一本松。

うちの近くの一本松。

あの3.11から3年。私の中では「もう」と思うけれど被災した方達はどうだろう。「莫大な義援金はどうなってしまったのだろう」と思っていたけれど、新聞を見て唖然とした。義援金ではないが「巨額の復興予算が使い切れず、積み上がっている」と出ていたからだ。その一方で、災害公営住宅は岩手、宮城、福島でいずれも計画戸数の一割以下しかできていなくて、入居できるようになった戸数は岩手は計画の8%、宮城と福島はたったの2%。「震災関連死」は3県で2973人。又プレハブ仮設住宅に住む人は約10万人にものぼる。お金を使い切れない背景の一つが自治体のマンパワー不足、というのだからもっと驚いてしまう。就職に困っている若者がこんなにたくさんいるのに。。。

きちんとした衣食住は日本では当然の権利であり、せめて気持ちのよい住宅に落ち着けることが再起を促すと思うのだけれど、テレビで見るプレハブ住宅の狭さでは、震災関連死が増えても当然だと思う。「少しの間」我慢する所ではないのだろうか。地方は都会の便利さと引き換えに、土地でも家でも広々とした住環境があったはずだから、あれでは余計こたえるだろう。

マンパワー不足なら、問題ごとに組織を立ち上げて住民に解決策を見出してもらえばよい。そのための資金はお金を使い切れない自治体が払うべきだ。また「弱い者の味方」であるはずの党は、今が出番のはずなのだけれど。。。理論だけでは説得力がない。具体策を提言してほしい。

震災や原発の問題で感じるのは、根本的なところで「誰も責任を取る」人はいなくていいのか、ということだ。原発廃絶を訴えた菅さんは辞めざるをえなくなってしまった。それで終わり?賠償問題は裁判になるけれど、震災関連死を入れて三万人近い方が亡くなり、その何倍もの人が生活に困っていて、お金だけの問題、想定外で片付けてしまっていいのだろうか?

少なくとも原発も誰がどういう思いで進めたのか、政治家は何を考えたのか、そこら辺のところもきちんと検証し、私達も理解しないと、又とんでもない間違いを起こしてしまうだろう。福島のことは過去ではなく、これからの日本を、私達の生活を考える上で、なくてはならない事実なのだ。

責任の範囲

うちにヒーリングに来た方との話。原発の話になると、「うちの主人の会社も関係しているみたいで。。。」と言っている。「でもやっぱり原発は怖いと思う。」と言うので「実際に原発開発に携わった方でも、事故が起きて『これはやはり人間の手に負えるものではない。』と反対している人たちがいるので、会社に自分の意見を縛られることないんじゃない?」と言ったものの「責任の範囲」ということについて考えた。

雪はうちの樋(とい)を壊して去っていきました。(涙)免責10万で補償も出ず。(もう一度涙)

雪はうちの樋(とい)を壊して去っていきました。(涙)免責10万で補償も出ず。(もう一度涙)

例えば、今ひたすら危ない方に進もうとしている政権について、自分は与党に投票していなくても、日本人である「自分達」が選んだ政権だから、政策には自分にも責任がある、と思わなくてはいけないのか、或いは主義主張が全く違うので、自分には接点がないと思っていいのか?例えば汚染水をだだもれにして世界の海を汚したら、世界は政治家や東電の幹部の名を挙げて非難しないで「日本」はなんということをしてくれたのか?と怒るだろう。とすれば「日本」の中には「私」も含まれるわけだ。

考えてみたら戦争もしかり。戦争で莫大な利益をあげる人も戦争反対した人も、一つの「国家」の中に押し込まれ、戦わなくてはいけない。無駄な命の消費の次に不条理なことがこの国による個人の消滅だと思う。「責任の範囲」というのは実はこれ程あやふやなものなのだ。

日本はどういう方向へ

日本はどこへ行ってしまうのだろうか?海外に出た時は日本の便利さ、居心地の良さ、食事の美味しさを思い知らされた。日本独特の自然の美しさも見直した。でも平和な日本にいる間にそれが当たり前になってしまった。もう少し世界に目を凝らして日本の良さを自覚すべきだったのではないだろうか?

沖縄問題を見ていると、日本はアメリカの植民地かと思ってしまう。武器や原発を作って売ると、景気はよくなるかもしれない。しかしそれは人を殺す道具であり、安全性は何一つ保証されていない代物だったりする。今地球で一番貴重なものはもはや命ではなくお金なのだろうか?そして人が他の命、植物や木、動物、昆虫をこれ程粗末にしていいのだろうか?

美しい日本、いつまでも

美しい日本、いつまでも

聖徳太子は「和をもって尊しとする」とおっしゃった。その和は人同士は勿論のこと、他の生きとし生けるものも包括しているはずだ。友達が「殺し合わなくてもいずれ死ぬのにね。」と言ったけれど、それが新聞にも出ていた。マザー・テレサが「諸悪の根源は利己主義」というようなことを言ったけれど、個人レベル、国レベルでそれをひしひしと感じた年の瀬だった。

秘密はばれる

特定秘密保護法案が成立しようとしている。識者を始め多くの人が反対しているにかかわらず、衆院は強引に通過させてしまった。私も勿論反対だが、反対に関しての意見は実にしっかりしているので、私は全く別の視点から考えてみようと思う。

まず何故これ程急ぐのか?アメリカの影響か?でも福島原発の情報開示はアメリカの方が正確かつ公明正大だった。しかしそもそも原発が日本に50基以上あるということを、かなり社会に関心を持っている人も知っている人は3.11より前は少なかったはずだ。原発がどんなに危険なものかということに関してはもっと知識がなかった。

わかっている人はわかっていたのだろう。そういう人が発言する機会が故意に奪われていたのかもしれない。結局、秘密にしなくても公然の秘密、にもならず日本人の意識にものぼってこなかったというのが本当のところだと思う。原発をとにかく作りたかった政治家の世論操作の意図がなかった、といえば嘘になるだろうけれど。

山梨からの富士山。喧騒が消えて、ほっとしている様な。

山梨からの富士山。喧騒が消えて、ほっとしている様な。

ところで「秘密」はばれる。秘密とした途端、それはマークされ、いつかはばれる宿命にある。何が「秘密」になっているかに関心が集まり、「秘密」はいつ世に出ようかとうずうずする。私は霊魂の存在を今はしっかり信じているので、「秘密」を作った人は本当に気の毒だと思う。あの世にいっても、いつばれかと気が気ではないだろうから。。。しばらくは心配でこの世を彷徨うことになるだろう。(いわゆる成仏できない)事故が起きるまで原発のことを知らなかったのは、自分の怠慢、プラス「秘密」の烙印がはっきりとは押されてなかったからではないか、と逆説的に思ってしまうのだ。