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たまには仕事の話(1)

うっそみたい。この前八月が終わったと思ったら、もう九月が終わる。ついこの前まで猛暑だったのに、いきなり涼しくなる。日本の気候には「段々」という言葉がなくなってしまったのでは。東京のコロナは行きつ戻りつ。コロナ禍と経済のバランスでこれは当然だけれど、何だか江戸時代、農民に対して行なわれた政策「生かさぬよう、殺さぬよう」という言葉が浮かんだ。菌に対しても人に対しても「生かさぬよう、殺さぬよう」ナンチャッテ。

では、真面目に仕事のお話。今年に入ってまともに仕事できていないが、とにかく気功のクラスを始めてから丸八年経った。早いな~。時々、もうここら辺で、と思ったこともあったけれど、そうすると何故か続けざるを得ないことが起きて、ここまできてしまった。という回顧話はおいといて、つい最近私にしては、本当に驚くことがあった。「打たれたような感激」とでも言おうか、でも周りの人に話してもいまいちピンとこないようなので、全く個人的な体験には間違いない。

手前のお花は曼珠沙華。別名彼岸花。お墓参りできなかったので写真でご先祖に捧げます。

KIRAKU気功ヒーリングでは、「邪気」というのがすごく大切で、体にある邪気をみつけ、これを取り除くことによってヒーリングしている。そして、原則的に痛みがある所には邪気があり、邪気が出ている邪気点をご気棒で押さえると飛び上がるほど痛い、そこから邪気を出して、手で祓っていくことでヒーリングを行なってきた。これは先生から教えられた大原則で私も20年以上、なんの例外もなく、また何ら疑うこともせずやってきた。

ところが、ここに来て近所のFさんから頼まれてヒーリングを始めたのだけれど、始めからわからないことだらけだった。主訴は「足がももから膝にかけて、すごく痛い。立っていられない。座ると良くなるけれど、立って仕事すると又痛む。」「お医者さんに行ったら、脊椎間狭窄症と言われて、薬を何ヶ月も飲んだり膏薬を貼ったりしたけれど、一向に良くならない。」ということだった。手で邪気のありかを探ったら、確かに腰から出ているけれど、太ももからは出ていない。だけれど、本人は腰に痛みはないと言う。えっ、どういうこと?

そういえばずーっと前、腰の痛みを訴えて来られた方を、やってもやっても良くならず、「一度内臓も病院で見てもらってください。」と言ったら本当に胃がんになっていて、胃を切除したら腰の痛みが見事に消えた、ということがあった。Fさんは下腹部から邪気が出ていたので、「いつか、きちんと検査してください。」と一応言っておいたが、それでも邪気の在りかと痛みがちぐはぐで、訳がわからないまま回数だけこなしていった。(途中から代金は頂かなかった)というのも、腰をヒーリングすると、それなりの邪気が出てきたので、これが取りきれれば何とかなるのでは、という気持ちがあった。(to be continued)

 

 

 

 

 

 

 

この世とあの世と安楽死(2)

はっと気がついたら、もう八月も終わり。ところで、私は時々不思議なご縁を頂くことがある。(残念ながらそれが現世的な利益に結びついたことはないけれど。)今回、安楽死について考えていたら、2020年3月14日の朝日新聞B紙面6面を偶然見ることになり、そこに究極の「安楽死」が書かれていた。

ナチスがやった少なくとも200万人ユダヤ人殺害の他に、「T4作戦で『働く能力の無い者』や『治る見込みのない者』を『安楽死』の対象とした。」そのため40年5月から1年足らずの間に1万4751人の命が奪われた。記事には相模原障害施設「やまゆり園」の事件にも触れている。「生産性や経済性が何より優先され、格差や不寛容がはびこるなか、弱い人を排除しようとする動きがますます強まっている。」

最近夕方の空が綺麗。一昔前は夕焼けのファンだった。

安楽死については本人にしてみれば、自分は死に際して苦痛を軽減できるし「社会のお荷物」になりたくない、という理屈だと思う。でもよく考えると、人間は年をとると誰でもどこかしら悪い所がでてきて「障がい者」になる。「障がい者」になってもそれに向き合って、どう生きるかが、この世に生まれてきた課題だと思う。経済性や生産性を考えても本当に「社会のお荷物」か。AIにどんどん職業が奪われる中、人の優しさが最大限に要求される「お世話」は大事な需要なのではないだろうか。

もう一つ気がついたことは、「安楽死」はナチスがしたように、容易に本人以外からもたらされることだ。「尊厳死」はあくまで自分で選択できる。だから「尊厳」が守られる。「安楽死」を希望していないのに、それこそ利害関係で「安楽死」させられる、なんて恐い事態が起こらないと言えるだろうか?

個人主義が徹底している欧米と「惻隠の情」や「忖度」のまかり通る日本では、この日本人の特性を考えると、「安楽死」を安易に受け入れていくのはとても危険なことだと私は思う。

 

 

この世とあの世と安楽死(1)

気功に携わっていると、どうしても目に見えない世界、つまり精神世界に関心がいく。で、スピリチュアリズムという学問になっているものを、主にE氏について勉強してきた。勿論個人指導などではなく、著作や講演会、すごく難しい試験を受けて(二つ受かって三つ目挑戦中)学んでいる。資格試験は年齢制限や、せっかく受かっても体力的に無理だったりするけれど、見えない世界はあの世のことも入っていて、これはこれから十分に役立つので勉強のしがいがある。(笑)

でも、子供達を育てている時に学んでおけばよかった、とつくづく思う。どうしても世間の価値観に合わせて子育てしてしまった。ま、私の子育ては成功しました、という母親は多分皆無だと思うので、これはあの世でじっくり反省することにする。世の中には、小さい時から世間の評価に惑わされることなく自分の道を突き進む子がいるけれど、こういう人達の親は、余程前世からの経験があり、本当の意味で賢いのだろう。

さて、私は今は「あの世」も「摂理」という形の神も信じている。あの世で、ここに来たらこういうような目に合って経験を積み魂を磨こう、と決めてくる。ある程度の青写真はあって、でも実際いろんな経験をし、それをどう生かすかは決められているわけではない。「運命を切り開く」という言葉は嘘ではない。

しかし、自殺ゃ、命の途中放棄は「ここで修行しよう」と決めてきた以上はしてはいけないことなのである。ここが難しいのだけれど、(前にも書いたかな)沖縄で集団自決した白百合隊とか、子どもの為にやもうえなかった金子みすずの場合は普通の自殺とは違う。霊界は動機をきちんと見てくれる。(ここがすごい)

木の上の月を写したのだけれど、写ってない。写真、難しい。

安楽死はどうか。これは一種の自殺で、生の放棄ということになる。自分の最後は自分で決める、というとかっこいいけれど、結局は苦しみたくない、醜いところを見せたくないということだと思う。しかも誰かを殺人者にしてしまう。

人生はこの世でオシマイ、と思えばそういうことも可能だろう。でも、「魂は不滅」であの世に帰り、この世で過ごした時のことを反省して、またし損なったことをするためにこの世に戻ってくるとしたら。。。「あなた、現世で生き抜きます、と誓ったのに途中放棄しましたね。」とまた同じような状況がくる。それは死後も辛いことではないだろうか?(to be continued)

 

最近読んだ本

もうすぐ、本が出る予定だ。勿論、気功の本。タイトルは「あなたも気功師」ず~っと前に本を出しませんか?という話があり、書き始めたのですが、両親の介護もあり遅々として進まず、やっと書き終えたら今度は出版社の都合で校正も進まず、のびのびになり、そうしたらコロナ禍突入で今日にいたる。いくら何でも今年中には出るでしょう。

コロナ騒ぎでStay Homeと言われると、何となく家にさえいれば何にもしなくていい気になるが、あにはからんや、時間は待ってはくれない。今年は大学の同級生で私より年下の(一浪しているので)男の子、いえもうおじさんですが、の訃報が入った。仲の良かった親戚も2月に亡くなった。ああ、人生は短いなとつくづく感じた。何があろうと、濃密に生きよう、と改めて思った。

そういえば面白い記事をみつけた。『「ステイ」とか「ホーム」や「ゴー」、私達は飼い犬ですかい?」』という女性週刊誌の女性記者の記事で、題を見ただけで笑ってしまった。本当に。日本はアメリカの犬かいな、と思ったけれど、私達はその政府の犬かしら。何ともはや。自立して、自分をよくみつめ、他人も大事にするし、同じ様に自分も大事に生きていかなければいけない。正しい情報をつかんで、判断し、振り回されないようにすることも大切だ。今こそ、一人一人が試されている時代ではないか、と思う。

去年の松島です。自由にどこにでも行けて、良い時代(?)でした

前置きが長くなったが、最近本の校正のついでに、森田洋之氏の『医療経済の嘘』を読んだ。医師で、夕張で勤めていたこともあり、一橋大学経済学部も出ているので、とてもバランスよく医療を分析している。表紙に〇〇〇が多い県に住むと医療費が2倍になる!と読者に質問をなげかけている。目からウロコで、出会ってよかった本の一冊になった。今問題の「安楽死」には触れていないけれど(見落としたかもしれない)日本の医療を客観的に捉えるには、とてもいい本だった。興味のある方は手にとってください。

 

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喫茶店から世界は広がる

もう、今日で7月が終わってしまうが、まあ、よく雨の降ったこと。そういえば二年くらい前に「天気の子」という映画を見た。確かあれは東京で、雨が三年ほど降り続くという話ではなかったかしら。今回は東京だけではなく、全国的に降ったので一ヶ月でも量的には同じくらいかしら、とどうでもいいことを思う。でも「天気の子」のような人がいたら、世界は随分助かることは間違いない。

今日、予定外だったけれど「こ〇〇の」という国立の喫茶店でランチを食べた。量も丁度よく、栄養バランスもいい食事を出してくれる。飲み物付きで900円。割のいいスタンプを押してくれる。そこに、話のはずむ20年も勤めていらっしゃるおばさんがいる。帰る時の会話。

私「ああ、もうこんな鬱陶しい世の中、早く終わりにしてほしいわね。」彼女「いや~、終わりになんかならないでしょ。」「三年くらいは続くのかな~。」「もっと、続くんじゃない?政府は老人はみんな死んじゃえば、都合いいと思っているのよ。」「アハハ!(でも政策決定してるのは、みんな爺さんばかりだけどな。)」とバアサン(私)は思う。

何を表現したいんだか。無理に「夏の部屋」

ところで、私は大学生の時に社会学を勉強した。今、社会学だけではなく、色々な立場の専門家から見たら、こんな研究すべき材料がおてんこ盛りの時はないと思う。どうしても、医学、薬学、生物学といわゆる理数科系の方ばかりに目が向けられるが、文科系でも各国のコロナに対する政策決定(政治学)マスコミ学(報道の仕方)人々の反応(社会学)哲学、勿論経済学と世界ほぼ同じ状況の中での比較、議論、分析ができる。ある意味では今、世界は壮大な実験場である。こんなことは滅多にない。転んでもただでは起きない精神で、研究者や学徒は頑張ってほしい。そして未来に向けての新鮮で、有効な研究成果を用意してほしい。

 

 

 

お天気の話

コロナで大変な時にお天気の話をするのも、能天気なことでありますが、いや~、全国的によく雨が降りますね。これはGoToキャンペーンをはずされた都民の恨み、涙の雨でしょうか?のはずないですよね。でももし、夏らしく入道雲が見えようものなら、私も「せめて夏山に行きたい。」と思ったかもしれません。高尾山はまだ、「東京都」なので行けるのです。神様が「この人は暇にしておくと、すぐふらふらどこかへ行って、危なくてしょうがない。」と思われたのか、(と、神様から気にしてもらえる人間かどうかは置いといて)しなくてはいけない(いけなかった)事が一杯ありました。連休中にしようと思ったことの、やっと半分が終了。毎日、「明日こそは。」と思い一日が終わってしまいました。

この美しい世界がいつまでも続きますように。

その忙しくも鬱陶しい天気の中で考えたこと。まず、東京のコロナ罹患者が多いのは確かだけれど、千人中何人としたらどうなのだろう。テレビで落語家のMCの方も「もっと正確な統計をだしたらどうだろう。」と言っていた。また地域ももう少し、丁寧に見て、今はここが危ない、といえないのだろうか?悲しいことに、最近の日本人はすぐ差別するからな、本当に保身で一杯一杯になっているのかもしれない。

正直、GoToキャンペーンには驚いた。そんな回りくどいことしたら、また余計に費用がかかるだろうに、また医療関係者は私が見る限り、「皆さんが動き回ると、コロナは広がります。」とはっきり意見していた。経済のためなら、たちゆかない所に直接現金給付すればいいのに。広範囲すぎて無理なのかしら。旅行も大きな楽しみで、人生に必要なものだけれど、ただこんな状況で旅行どころではない人も大勢いるはずだ。その中で旅行に行ける人は、色々な意味で余裕があると思う。(私も旅行が大好きで、決して批判しているのではない)ただ、今、その余裕がある人達にGoToのサービスの必要があるのだろうか?そんなお金があるなら、コロナ患者を受け入れたために大赤字になった病院とか、倒産しそうな企業にお金を直接使えばよい。

もっというなら、GoToを提唱して行なった人達は、その後の責任をとってほしい。民間なら何かを企画して失敗だったら、直ちに出世とか給与に関係してくる。企画したものが失敗であってもとんでもない事態を引き起こしても、政治家だったら許されるというのはおかしいと思う。責任の所在をはっきりさせて、物事のめりはりをつけてほしい。

私の今ウィルスで気になっているのは、ハンタウイルス。ネズミの排泄物から感染するらしい。中国では死者が出ている。人から人への感染はないらしいが、一度かかると、あっというまに死にいたる恐ろしいものだ。今までのウイルスでも、初めは人から人への感染はなくても、後から変異して人から人へ移るものもあった。特に国民を守る仕事についている方は、コロナだけではなく、ハンタウイルスのことも視野に入れていただきたい。高齢者からのお願いです。

 

 

 

コロナ時代の気功

何度か書いていると思うが、気功ではウイルスを殺すことはできない。でも、コロナワクチンができていないので打つ手なし、というのは他のことでも同じかも。気を常に出すことにより、コロナウイルスを寄せ付けない、ということはできると思う。今のところ私はいつも熱が36度以下で、低体温動物になってしまったかと心配している。あまり体温が低いと免疫機能が落ちるようで、それはそれで心配だ。どこでも一万円ほどする(お値段が高い)体温計でおでこで測るが、私はすごく汗っかきで、汗を拭った状態で体温を測ると、気化熱のせいで体温が低く出るのではないかと思っている。

いつも忙しく、優雅に咲いている花は別世界です。

もとい(古っ!)気功のはなし。当たり前と言えば当たり前だけれど、私は気功に大きな信頼を置いている。気功を知る前は、色々な病気をして、今でもそうだけれど喉が弱いせいで、以前は少し疲れるとすぐ喉風邪をひいた。疲れやすくもあり、よくぞ男の子を三人生み育てたと思う。(これに関しては自分を誉めてあげたい)亡き両親がとても助けてくれた。今更ながら御礼を言う。しかししかし、気功を身につけてからは「元気ですね。」とか「よくそれだけ動き回れますね。」とかしょっちゅう言われる。親戚の叔母は、私が幼稚園生と競争して山を降り、負けて悔しがっていたら「貴子さん、年を考えてあまり本気で、飛んだり跳ねたりしない方がいいわよ。」と真顔でおっしゃった。競争に負けたのは本当だけれど悔しがったのは勿論、お芝居。久しぶりに大声で笑った。

その気功を教え始めてもうすぐ八年になる。なかなか楽しくて、私自身も勉強になったけれど、ここにきてコロナが。。。気功は遠隔ではどうにも教えることも、ヒーリングもできない。気の出方とか様子を見ながら指導しているので。遠隔(アブセント)ヒーリングは可能だけれど、これは気功とは別物。なんとかクラスは6月は行なったが、東京はまたぞろ増えてきて7月はどうなるかわからない。世界は益々ひどい。

あわよくば、気功で生計をたてられるくらい、これから頑張ろうという気もあったが、今はどこかに勤めてmaking money して、気功は天職にしようかなと考え始めた。スピリチュアリズムによると、適職は食べるための仕事、天職はお金にはならなくとも、自分の魂に気持ちいいこと、とE氏は定義されている。適職と天職が一緒の人は余程幸せな人で、その幸せな人になろうと思ったけれど、コロナで水を差された感じになってしまった。で、一度クラスは冬は休止にしようかと考えています。

クラスにずっと来て下さっている方は、かなり気功ヒーリングができるようになった。実践が足りないのでそこだけは自信をもって、片っ端から周りの人にやってあげてほしい。困ってしまったら、いつでも連絡して下されば相談にのるし、アドヴァイスもします。またうちでいままで通りヒーリングもします。

完全に気功を教えることを止めるつもりはない。セルフ・ヒーリングができるこんなすぐれものを、多くの人に伝えたい、という気持ちは常にあるし、クラスに来られた方も気功をどんどん広めてほしい。いくらなんでも本は今年中には出るだろうし、そしたら、また新たな動きがあるかもしれない。

という訳で、これは途中経過報告でした。詳しくは「気功教室」をご覧ください。(今日は遅くなったので、明日、記事を整えます。)

 

 

芸術の必要性

段々色々なことが大変になると、生きるのに芸術や趣味は二の次、三の次に置かれることはあるけれど、では必要ないかというと絶対そんなことはない。こんな話を思い出す。極寒にシベリアに戦争の捕虜として、一組の音楽家の夫婦が送られた。あまりの厳しい環境だったため、妻の方は精神に変調をきたす。その頃から、自分が演奏していたバイオリンを弾く仕草をはじめ、それは亡くなるまで続いたという。

紫陽花の季節!!

その方にとって音楽は人生そのものであり、自己表現というよりも音楽の中にこそ自分が存在したのだろう。音楽に限らず芸術で表現したり、芸術を意図的に生み出すのは人にしかできないことで、それは何故かというと、人は「共感」ができる動物だからだと思う。例えば音楽を奏でる人は、音楽そのものと作者に共感する。しかし共感の仕方が違うから、千差万別な音楽ができる。それを受け取る方も勿論、色々な感じ方をするのだけれど、私はそこに何か言葉では表せられない共通の認識、というか底に流れる共有できる感動みたいなものがあると思う。

音楽は一瞬にして消えてしまうが、作った作者、演奏者、聴衆がある世界に一瞬にして入る。これはよく考えてみれば奇跡に近い。私はピアノや歌が好きなので音楽を例にしたが、他の芸術でも根本的には一緒だろう。芸術に対する理解や思いやりがない国は、文明の度合いが低いとさえ感じる。コロナのせいで日本に根付く芸術、古いも新しいも問わず絶やしたり、衰退させてはいけない、と思う今日この頃である。

 

「不幸」にならないために

コロナ禍で、普段は西に東に飛び歩いている私を心配して、色々な方から「Stay Home」と言われ続けているうちに本当に外出する気がなくなり、理由を作って渋谷や新宿の病院に行った以外は家にいた。(大きめなガングリオンができて、念のため病院に行った。良性で放っておいて問題なし、ということでした。)

話が横道にそれたついでに書くと、西新宿の東京医科病院は、駅から歩いて30秒足らず、スタッフ、看護士さん、お医者さん感じよく、上のレストランは「宮内庁ご用達」で景色も良く、おいしく、少々お値段は高いけれど、(5千円以上のステーキ以外なら手の届く範囲)満足できる「旅」となった。(三回行って終わりになってしまったけれど)私の苦手な病院独特の臭いや圧迫感もなく、将来のお世話になるかもしれない一つの候補をみつけた気分だ。

もう、紫陽花の季節です。写真を撮りに外出します。

話を元に戻すと、人は色々なところで「幸せ」を感じることができる生物だ。それは時には「何かを信ずること」にも密接に関係がある。極端な話、殉教者が「これで天国に召されて、信念を貫いたことで神様に誉められる。」と思えば、その人は幸せなのかもしれない。ホームレスの方で、住む場所があってもそこを出て、以前の生活の戻る人がいるのは、住居を持たない自由が何物にも変えがたいのかもしれない。私がよくした登山にしても、「こんな素敵な日に山にこないのは勿体無い。」と思っていたが、「降りるために、しんどい思いをして上るのが、何が面白い。」と言われてびっくりした。「幸せ」の形は様々だ。

一方、不幸の形は源が似ている。物事を「不幸」と捉えた時から不幸は始まる。息子達に言っているのは、どんな状況でも「不貞腐れ」「自暴自棄」他人を妬み、嫉んで「僻む」ことさえしなければ、状況が変わり道は開けるよ、と言っている。上記の状態に陥ると、目が塞がりチャンスが来ても気がつかない。そして「不幸」のスパイラルに陥ってしまう。

スピリチュアリズム的に言うと、霊界や守護霊と自分の間に、この悪想念で厚い雲を作ってしまい、いわゆる天啓が届かない。

コロナ禍で私も見事にほぼ三ヶ月無収入、仕事も「三密」になりやすいので、これから仕事を続けられるかどうか考えてきた。ある意味方向転換には良い時期かもしれない、と思い始めた。ヘレン・ケラーも「やって失敗するよりも、チャレンジしない方が人生もったいない」というようなことを言っている。幸い、まだ気力、体力ありそうなので目一杯「命」を使いきることにした。仕事がしにくくなった、と負に考えるより余程いいと思う。

 

言いたい放題ーオリンピックについて

なかなかブログが書けないので、今日は二連発。今日の夕食はざるそばをメインにした。大好きな子ネギがなかったのは残念無念。後は、ほうれん草の甘辛のゴマあえ。ポテトサラダ。「聖護院かぶらのスープ」、イチゴのつぶして砂糖とミルクを加えたデザート。たんぱく質が足りないが、朝ししゃもを食べたので、よしとする。おいしかったです。

五月上旬の写真。菖蒲かあやめか私にはわからない。

さて、日本でオリンピックができるんだか、できないんだか。不思議なのはバッハ会長がどれだけお偉い方だか知らないけれど、なぜ日本との綿密な打ち合わせも無しに(という風に見える)勝手に色々なことを決めるのだろう。もし、開催国がアメリカやロシア、中国、ドイツ、イギリスでも同じようにするのだろうか。日本は何兆も出しても、そんなに発言権がないのだろうか。はじめに日本に決まるのに、賄賂の話もあったが、オリンピックの女神の逆鱗に触れたのではないだろうか。

始めにロゴ問題で躓いた時、いや~な感じがした。「始めよければ終わり良し」「終わり良ければ全て良し」ということは、東京オリンピックを象徴するロゴで始めに躓いたということは???と、前のことを言っていてもしょうがない。

もし、「もう今回のオリンピックはやめ~」ということになったら?私は大規模な国体をすればいいと思う。昔の日本で霊的な書物で驚くべきことが書いてあった。(以前にも書いたかもしれないけれど)日本は世界の縮図だというのだ。北海道は北アメリカ、本州はアジア大陸と南アメリカ、九州はアフリカ、四国はオーストラリア大陸を表しているという。(正確ではないかもしれませんが、そのような事が書かれていた)で、世界から来ていると思って、各地を世界の大陸に見立てて開催すればいい。(笑)

冗談はともかくとして、コロナでオリンピックができないならば、参加できる選手の体調管理を一年前からして勿論、日本に入国する前に検査をしっかりする。観客も海外から来る人は全て体調に関して管理して、来られる方を厳選する。これしかない、と思う。会長の言に右往左往しないで、日本はこれだけのことをしてきたので世界の方もお願いします、という態度が大事だと思う。もう少し、本当の日本の誇りを見せてほしい。それこそがオリンピックを日本で行なう意義だと思うのだけれど、皆さんはどう思われますか?