この世とあの世と安楽死(2)

はっと気がついたら、もう八月も終わり。ところで、私は時々不思議なご縁を頂くことがある。(残念ながらそれが現世的な利益に結びついたことはないけれど。)今回、安楽死について考えていたら、2020年3月14日の朝日新聞B紙面6面を偶然見ることになり、そこに究極の「安楽死」が書かれていた。

ナチスがやった少なくとも200万人ユダヤ人殺害の他に、「T4作戦で『働く能力の無い者』や『治る見込みのない者』を『安楽死』の対象とした。」そのため40年5月から1年足らずの間に1万4751人の命が奪われた。記事には相模原障害施設「やまゆり園」の事件にも触れている。「生産性や経済性が何より優先され、格差や不寛容がはびこるなか、弱い人を排除しようとする動きがますます強まっている。」

最近夕方の空が綺麗。一昔前は夕焼けのファンだった。

安楽死については本人にしてみれば、自分は死に際して苦痛を軽減できるし「社会のお荷物」になりたくない、という理屈だと思う。でもよく考えると、人間は年をとると誰でもどこかしら悪い所がでてきて「障がい者」になる。「障がい者」になってもそれに向き合って、どう生きるかが、この世に生まれてきた課題だと思う。経済性や生産性を考えても本当に「社会のお荷物」か。AIにどんどん職業が奪われる中、人の優しさが最大限に要求される「お世話」は大事な需要なのではないだろうか。

もう一つ気がついたことは、「安楽死」はナチスがしたように、容易に本人以外からもたらされることだ。「尊厳死」はあくまで自分で選択できる。だから「尊厳」が守られる。「安楽死」を希望していないのに、それこそ利害関係で「安楽死」させられる、なんて恐い事態が起こらないと言えるだろうか?

個人主義が徹底している欧米と「惻隠の情」や「忖度」のまかり通る日本では、この日本人の特性を考えると、「安楽死」を安易に受け入れていくのはとても危険なことだと私は思う。

 

 

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