この世とあの世と安楽死(1)

気功に携わっていると、どうしても目に見えない世界、つまり精神世界に関心がいく。で、スピリチュアリズムという学問になっているものを、主にE氏について勉強してきた。勿論個人指導などではなく、著作や講演会、すごく難しい試験を受けて(二つ受かって三つ目挑戦中)学んでいる。資格試験は年齢制限や、せっかく受かっても体力的に無理だったりするけれど、見えない世界はあの世のことも入っていて、これはこれから十分に役立つので勉強のしがいがある。(笑)

でも、子供達を育てている時に学んでおけばよかった、とつくづく思う。どうしても世間の価値観に合わせて子育てしてしまった。ま、私の子育ては成功しました、という母親は多分皆無だと思うので、これはあの世でじっくり反省することにする。世の中には、小さい時から世間の評価に惑わされることなく自分の道を突き進む子がいるけれど、こういう人達の親は、余程前世からの経験があり、本当の意味で賢いのだろう。

さて、私は今は「あの世」も「摂理」という形の神も信じている。あの世で、ここに来たらこういうような目に合って経験を積み魂を磨こう、と決めてくる。ある程度の青写真はあって、でも実際いろんな経験をし、それをどう生かすかは決められているわけではない。「運命を切り開く」という言葉は嘘ではない。

しかし、自殺ゃ、命の途中放棄は「ここで修行しよう」と決めてきた以上はしてはいけないことなのである。ここが難しいのだけれど、(前にも書いたかな)沖縄で集団自決した白百合隊とか、子どもの為にやもうえなかった金子みすずの場合は普通の自殺とは違う。霊界は動機をきちんと見てくれる。(ここがすごい)

木の上の月を写したのだけれど、写ってない。写真、難しい。

安楽死はどうか。これは一種の自殺で、生の放棄ということになる。自分の最後は自分で決める、というとかっこいいけれど、結局は苦しみたくない、醜いところを見せたくないということだと思う。しかも誰かを殺人者にしてしまう。

人生はこの世でオシマイ、と思えばそういうことも可能だろう。でも、「魂は不滅」であの世に帰り、この世で過ごした時のことを反省して、またし損なったことをするためにこの世に戻ってくるとしたら。。。「あなた、現世で生き抜きます、と誓ったのに途中放棄しましたね。」とまた同じような状況がくる。それは死後も辛いことではないだろうか?(to be continued)

 

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