ある出会い(2)

もう一つ不思議な話を書いておこう。友達と京都の伏見稲荷に行った時のこと。京都伏見稲荷は現在、外国人の旅行者に人気ナンバー1のところだ。私は途中まで行ったことがあったけれど、友達が行ったことがないというので、一緒に稲荷山の上まで行くことにした。

長い長い階段を経て途中の茶屋で休みながら奥の院に着いた。そこでは観光気分の外国人の方が大勢いて、水分補給をしたり写真を取り合ったりしていた。伏見稲荷は「お狐様」が祀られている。『ある出会い(1)』で書いた自然霊の神様で、低級自然霊とは対極にある高級自然霊の神様である。何でも、日本では祀ってある神様の中で数ではダントツトップを誇るのは「稲荷神社」らしいが、それらを束ねる最高峰の神様だ。

今にしてみれば、ちゃんと真摯な気持ちで向き合わなければいけなかった。降ったり止んだりの天気の中、やっと辿り着いた安堵感と周りの雰囲気で、奥の院にお参りしたものの多分気持ちが入ってなかったのだろうと思う。

山に咲いている紫陽花(季節はずれでごめんなさい。京都に行ったのは六月でした。)

山に咲いている紫陽花(季節はずれでごめんなさい。京都に行ったのは六月でした。)

帰ろう、ということで私が先に立って階段を降り始めた。と、ぱたぱたという大きな足音が聞こえた。ああ、私よりも8歳も年上の方で、さすがにお疲れになったなと思った。後ろを振り返ったけれど、その方以外誰もいない。暫くして遂に私は「やっぱり疲れたよね。すごく大きな足音ね。」と言った。するとその方は「あら、失礼ね。私スニーカーはいてきたのよ。足音なんかするわけないじゃない。」と憮然としている。「えっ!うそ~、さっきからぱたぱたぱたぱた、聞こえるわよ。」と言うと、それでは友達が前を歩こうということになった。音は続いている。右側が草地になっている所に出た。すると、まるでそこを獣が走るような「ザワザワザワ~」という音が聞こえた。「今の聞こえた?」と言うと、「ううん、全然。」と言う。歩き続けると、今度は右後方に明らかに人(?)の気配が。ただ振り返っても何も見えない。そこで彼女にとうとう言った。「何か私について来てしまったみたい。」すると彼女も「実は私もそう思っていたところなの。途中勧請されている神社に(小さい造りだが全国の有名な神様が祀られている)お願いしてお帰り頂いたらどうかしら。」それがいい、いやそれしかない、一番初めに出会った神社で、ということになり少し下ると「伊勢神宮」が勧請されていた。天照大神が主神で、私の知る限り最高神なので、本当にほっとして、今日ここにお参りできたことを感謝し、奥の院で心が入ってないお参りを謝った上で「私の気持ちのゆるみから、ついて来たものがいます。どうぞここで帰られるよう、お諭しください。」と心をこめてお願いした。友達も一緒に祈ってくれた。

 

京都の一角。こんな所にも京都らしさが。

京都の一角。こんな所にも京都らしさが。

こういうのを本当に霊験あらたかと言うのだろう。それからは足音も気配もぴたりと止んだ。後から考えて二つのことを思った。一つは神に向かい合う時の自分の気持ちがいかに大切か、せっかく苦労して上っても、いつもの様にしっかり気を入れてなかった。勉強して知ったのだけれど、高級な神様の所には助けを求める人間ばかりではなく、不満?を持っている低級霊も高級霊を頼って集まってくるそうだ。全国には祀って願い事を叶えてもらった後は平気で打ち捨てている「お狐様」の社が沢山あるようだ。するとそういう「お狐様」は、ぐれてしまって低級化し、そうなると故郷である例えば、伏見稲荷のところにも帰れなくなるという。そういう「お狐様」が中途半端な気持ちの私に目をつけたのかもしれない。

それからもう一つ。実は前回書いた新聞の写真を、友達に見てもらおうとリュックの後ろのポケットに入れておいた。この低級霊が写っている(と私が感じた)写真そのものに反応したのかもしれない。(写真を暫く見ていると気分が悪くなるので見せた後は燃やそうと思っていたのだが)二日間の旅行で、見せることを忘れ、帰ってから「見たら燃やしてね。」とお願いして友達にスピリチュアルな本と一緒に送った。(友達が、私とある程度世界を共有している方でよかった。)怪しいものは持ち歩かない方がいいし、だからお守りもちゃんと持ち歩く意味があるという大事な教訓を私に残してくれた「出来事」だった。

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