何がいけないのか?

最近、子どもが犠牲になる事件が多い。川崎登戸は、私がどこに行くにも良く使う南線沿線で、通る度に思いだすことになるだろう。

小学校六年生の女の子とお若い外務省職員のご冥福を心からお祈り申しあげます。

犯人は自殺してしまったので、余計やりきれない事件になってしまった。「死にたいなら、子どもや他の人を巻き添えにしないで、一人で死んでくれればいい。」というコメントに対し、「それでは解決にならない。」というコメントもあったようだ。

いわゆる「拡大自殺」というもので、自殺したいのだけれど、それでは自分の気がすまない、或いは他人を巻き込むことで自殺の寂しさをまぎらわすという心理のようだ。勿論許されることではない。しかし現実的には、なぜこういう人になってしまったか、という分析なしには次から次へと同じ様な事件が起きることは間違いない。

一番には、自分の未来に希望が見出せないことだろう。そして、この事件を考えていた時に、私が勉強しているスピリチュアリズムのH氏が作った2017年5/31日の日めくりカレンダーを見たら、「問題を起こす子を怖いと思うかもしれないけれど、その子たちは『空き家』なんです。住人は誰?『愛』という住人がいないから、空き家なんです。」という文章が目について、唸ってしまった。どうして唸ったか?

やはり例外なく、犯人もそうだったのだろう(だから許されるとは言ってません)という気持ちと、いつもそうなのだけれど、どうして考えていることのヒントになる言葉をタイミングよく投げてくれるんだろう、という驚きの唸りだ。

ということは、日本人を取り巻く環境が「愛」を与えられないのではないだろうか?一緒に暮らしていた親戚、という狭い範囲ではなく(大変彼を心配なさっていたようです)モノ、金、権力で人を判断することになってしまってないか?それは息苦しさと自己を認められない寂しさ、だけを若者に感じさせないだろうか?

子どもを巻き込んだ多発する事件は、ヨセフやマリアと子どもであるイエスの犠牲に見える。イエスは人の、自分だけを愛する心ではだめだ、という教訓を残してくれた。心を大事にする社会でなければ、人として恥ずかしいと思う。経済的に行き詰まりが見えてきた現代こそ、教育も生き方も考え直すチャンスかもしれない。

誤解なきよう書いておきますが、スピリチュアリズムを勉強し始めて不思議なことは幾つもありましたが、いわゆる「ご利益」を金銭的に頂いたことは一度もありません。ただ、「気づき」という「ご利益」は沢山いただきました。(宗教とは思っていません。)

時間がないので、写真は後日入れます。

 

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