人間の中の天使と悪魔(1)

前回、父のことを露骨に書き過ぎてしまったと反省している。「覆水盆に帰らず」なので、今回は今まで父に憤ったことと感謝したことも書いておこうと思う。母は80近くなって驚くほど腰が曲がり、歩行困難になった。そんな母を父は疎んじた。どこかに行く時も、自分の奥さんだと思われるのが嫌だったようで一緒に歩かず、なるべく離れて歩き、電車も違う車両に乗った。なので、母は段々外出をあきらめるようになった。二人しかいない家の中で、口が達者な母にいらだつと時々手をあげた。そんな話を母から聞くと、私は(今から考えると)こともあろうか、「やられたら、何でもいいから近くにある物を使って反撃しなさい。お父様も痛いということがどういうことか、わかった方がいい。」と言った。あやうく母か父を人殺しにするところだった。

そんな父にきれて、何を言ったか忘れたが、多分もの凄くきついことを言ったのだろう。何か言って父は黙り込んだ。そうしたら、後から母から電話がかかってきて、私に話しがあると言う。何かと思って会ったら、私が言ったことを父が母に言って悲しんで涙ぐんだという。何と「お父様が可哀相だから」父に謝れ、という。確かアメリカから来た姉と甥夫婦のために大奮闘して、父母も一緒に旅行をした最後の日にお礼の一言もなく、これ以上理不尽なことはないことを言われ、それに対して反発した言葉だったと思う。金銭的にもほとんどうちで負担したのが、父の沽券にかかわったのだろうか?親孝行もかねてしたつもりが「謝れ」という結果になり、また逆上しそうになったが、それよりもその時ほど「夫婦関係は子供でもわからん」と思ったことはない。

お寺の桜

お寺の桜

そんなあまり感心できない親子関係だったが、父は私に子供ができると、正確には長男が三ヶ月ぐらいしてから急に可愛くなったのか、それこそ「目に入れても痛くない」という言葉がぴったり当てはまるくらい可愛がった。残念ながら転勤族で、長男が一才過ぎたら遠く離れてしまったけれど、男の子三人、皆可愛がってくれた。この愛を妻と子供に少し向けることができなかったのかと思ったこともある程、私は別人を見るような思いだった。私達は勉強でわからないことがあって聞いても「なんで、こんなことがわからんのか」と先ず怒られ、しょっ中「ばか」と言われて育った。ところが、長男が二浪が決まった時、わざわざ電話してきて「男はいずれ社会に出る。人生の中で二年余計に勉強するのは、有意義だ。」と言ってかばった。私は心の中で「そんなこと言うなら塾代出してよ。」と思ったけれど、気が弱かったので(?)言えなかった。

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