年をとるということー父の話(2)

父も母もとても頑固だった。私が社会人になったら、それは余計ひどくなった。外資系の損保会社に就職し、世の中のお金の動きに少し敏感になり、そんな時バブルを迎えた。「今が売り時。」私は父が所有する不動産についてかなり頑張った。すると父は激怒した。親戚中に悪口を言い、「あの子にだけは、あのうちはやらん。」と宣言した。父の設計した立派なうちだったが、結局50年以上誰も住まず、家が哀れだった。そこに法事の後、久し振りなので、父がさぞ喜ぶだろうと思って子供達と連れて行った。すると開口一番「なんでこんな所に来た?帰ろう、帰ろう。」だった。

途中から、父母はお嬢ちゃん、お坊ちゃまの組み合わせだから、私の基準で何か言ってもしょうがない、と思うようになった。私が学んでいるスピリチュアリズムでも、「親だと思うから腹が立つ。それは一種の依存です。」と言われ、余程困ること以外は自分とは関わりのないこと、と思うようにした。そうこうするうちに親子の立場が逆転した。父の肛門が緩くなり、漏れてもほっておくので、匂いに敏感な私はすぐわかり父の大便と格闘することも何度か経験した。

白い百合は祖父が好きな花だった。

白い百合は祖父が好きな花だった。

赤ちゃんと一緒でお尻を拭いている最中に刺激されて、溜まっていた便がどんどん出てくる。トレペをかなり使ってから、気がついてトイレに座ってもらった。その間、自分でも拭こうとするので惨状はひどくなる。ある時、肛門から7cm程垂れていたものを見つけた。取ろうとしてもなかなかとれない。あれっ、と思ったら腸だった。子供で経験があったので、押し戻したら2cm程残ったけれど入っていった。(お医者さんに相談して手術決定)悪臭と戦いながら、いつも思うことは「男の子三人育ててよかった。」ということだ。扱いなれていたので、抵抗がないことはないが、何を見ても(笑)卒倒することはない。

姉がアメリカに行ってしまったから一人娘みたいなもので、私の両親だけまだ残っている。傍から見たら損な役回りかもしれない。まだ、介護した人が多く遺産を頂けるという法律もない。でもどこかで、近くで親の世話をできるのは私が幸せな証拠と思っている。助けてくれる方が沢山いるので、燃え尽きる心配もない。口が達者な母は、脳の言語野がやられたので不満も言わない。(浪人している時は母の言葉でノイローゼになりそうになった)今、施設でにこにこしている母を見ると本当に嬉しくなる。

父に対しては複雑だったけれど、最近あることに気がついた。人に対して、親切にするとか思いやりをもつとかはほとんどない父で冷たい人だなと感じていたけれど、自分に優しくしてくれなくても文句は言わないし、自分の状態に不満も口にしない。もう少しこうしてくれればというのもあまりない。母とはいつも喧嘩していたけれど。。。やさしいヘルパーさんやケアマネさんの支えも大きいのだろうけれど、その点はとても助かる。お坊ちゃまなので、人に大便の世話であろうと何であろうと、何かしてもらうのに、たいして遠慮がないのも私にとってはやりやすい。これをいちいち、恥ずかしがったり、嘆いたりされたら却ってやってられないだろう。

そして、あまり抵抗なく父に関わっていられるのは、近い将来の自分の姿をそこに見ているからだと思う。ああ、年をとったら、とてつもなく頑固になって、色々なこと、ついには下のことまでできなくなって、朝も昼もわからなくなり、食事を作るのはおろか冷蔵庫から食べ物を取り出すのもできなくなるんだ、と学ばせてもらっている。父以外の全員一致の意見で、今月近くの素敵な施設に入ることになった。体験の時は喜んで帰るのを嫌がったくらいなのに、おとつい施設長と行ったら全く忘れていて、「この家を離れるわけにはいかん。ほっといてくれ。」と威張るので、「ほっておいたら、何も食べないから干物になるよ。」と言ってきた。

 

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