月別アーカイブ: 2017年1月

社会を覆う不安材料

トランプ氏がアメリカ大統領になった。あまりに正々堂々と事実誤認に基づいた意見を言うので(例えば車の関税について)呆気にとられているが、どうして日本の政府も「それは違う。」とすぐ言わないのか不思議でならない。昔の話で忍者が、雇っている殿様に命令されて「御意」と答えて言われた通り動いたが、思わずそれを連想してしまった。お金と権力さえあれば、何をしても許される時代なのだろうか。

ただ、日本の正規雇用の低さを見るにつけ、国内に工場を建てて雇用を拡大する、というのは素人目に見ても何故、日本も早くそのように動かなかったのかと思う。人件費が安いところ、安いところに工場を建て、挙句の果ては優秀な技術ももっていかれたのではないか?日本人の生活は段々貧しくなり、消費力が落ち、国力も弱くなり、と悪循環に落ちると日本人もプライドも持てなくなり、文化力も落ちてくる。

富士山の様にどんな時も凛としていたい。

富士山の様にどんな時も凛としていたい。

どんな時も是々非々で、経済や権力に振り回されないためには「精神」で立ち向かうしかないと思う。どんな精神かというと、「お天道様に見られてもはずかしくない」精神だ。日本人は古来から持っていたはずだ。きついことを書くと、犬のように尻尾を振っていたら、トランプ氏は犬扱いするだろう。あくまで日本は凛としていてほしい。

私は最近やっと人は、「自分だけのため」から「他人に愛を向ける」範囲を広げるために生まれてくる、ということを理解し始めた。個人も国も一緒で内向きになると、そこには本当の繁栄はやってこない。(この世で本当の繁栄はないかもしれないが)少なくともトランプ氏に大事にしようとしている「アメリカ人」の定義を聞いてみたい。不法移民ではないアメリカに住む人という定義ならば、自分に反対している人や立場の人の意見を尊重しないのは、大きな矛盾だと考える。

不思議な話

もう去年のこと。私の母方の祖母の33回忌に豊橋のお寺まででかけた。もうほとんど近親者だけだったけれど、20名以上はいたようだ。久しぶりに会った方もいて、ひとしきり話をした後、法事がはじまった。「般若心経」を唱和したけれど、私が知っているお経の速度よりずっとゆっくりだったので、調子が狂ってしまい途中何度もわからなくなってしまった。

ジャジャジャ~ン。今年初めての富士山。車窓から。

ジャジャジャ~ン。今年初めての富士山。車窓から。

おばあちゃまもあきれてるだろうな、と思いながら前を見ると、祭壇の横の後ろの方に着物を着た女性が立っている。こちらを見ていないで首をかしげて右の方をみている。胸元の白い襟が広く見えて黒い着物の下に模様が入っているので、いわゆる黒留という近い親戚の結婚式に着る着物を召している。黒留にしたら、襟の合わせ方が緩く襟も出すぎだと感じた。あまりはっきり見えるので、「これは人形か立て看のようなものに違いない。読経の後サプライズで出してくるのかしら。でもちょっと考えられないな。」とぼんやり考えた後、「まさか祖母の幽霊?」と思った。祖母はそういう時代でもあったのだけれど、特に着物が大好きで、私も「さすが、名古屋着倒れの人だな~」と思うくらい上等な着物を沢山持っていた。

私は二列目に座っていたので、前にいた従姉妹にひそひそ声で声をかけた。「ねえ、隅に女の人いない?」すると凄い勢いで私の方を振り返り、「私もそう思っていた。」と言ったのだ。みんなに見えるのだったら幽霊のはずはない、と思い色々の人に聞いてみたけれど、「私、見えます。」と言ったのは他に一人だけ。後の方はぽかんとしていた。二人にどんな風にみえるか聞いてみると、姿勢、着物、大きさが一致していたので同じもの(人)を見ていたことは間違いない。

何人か幽霊にお会いしたけれど、複数で見たのは始めてだし、他の方は何か蝋燭の光の中のようにぼんやりした中に見えたけれど、祖母(?)はあまりにもはっきり見えた。近寄ったら消えてしまう。でも遠ざかるとまた見える。始めに声をかけた従姉妹は、若い時からお葬式の司会を仕事としていたので、あの世界に近いのかもしれない。もう一人の従弟のお嫁さんも純粋な方だ。見えた幽霊は雰囲気が(幽霊でも雰囲気があるのです)暗くなく、なにか「くすっ」と笑っている感じだったので、法事を喜んで下さったのかもしれない。久しぶりにあの世の方に会えた法事だった。

 

今年もよろしくお願いします

大変遅いご挨拶になり、申し訳ありません。昨年暮れから夢中で走り続けて、今日やっと一息つきました。で、もう11日。わ~、この調子でいったら今年もあっというまに終わってしまう。と今からあせってもしょうがないので、また夢中で走るしかないでしょう。今年もよろしくお願いいたします。

母のいる施設のお飾り。飾ってあってほっとしました

母のいる施設のお飾り。飾ってあってほっとしました

久しぶりに帰ってきた次男と4日に、地域の神様である谷保天神に初詣に行ってきました。4日なのにまだ混んでいて、石段の列に並びました。(いつもは横から賽銭箱にお金を入れるのですが、次男がそれは駄目と言うので。。。)暫く並んでいた時、足の悪そうなおばあさんが私に「ちょっとあなた、私を向こうの鳥居まで連れて行ってくれませんか?」と後方の鳥居をさして言ったのです。列はどんどん進んでいるし、次男が帰ると言っていたので間に合わなくなる、という判断をして丁寧にお断りしました。すると列の後ろに並んでいたおじいさんが、「私が行きますよ。」とその方の手をとったのです。「ごめんなさい。」ともう一度言って、大分進んでから後ろを振り返ると、まだほとんど二人は進んでなくて、やはり親切にできなかったのはしょうがなかったと思いました。

「あの方、今からお参りする人ではなくて、帰る同じ方向の人に声をかければよかったのにね。でも行ってくれる人がいてよかった。」と息子に言ったら、「お母さんは、くみし易いようにみられるんだよ。人が良さそうというか、声をかけやすいというか、脇が甘いんだよ。」と非難するので、確かに大勢いる中で声をかけられるということはそういうことかもしれない、でも非難されることでもないのに、と思いながらお参りをすませました。

帰りみち、菅原道真を慕ったという牛の前にご夫婦がいらして息子に「写真を撮ってもらえませんか?」と頼んできました。息子は「あっ、いいですよ。」と二つ返事で引き受けて、写真を撮りました。私のところに戻ってきた息子に言ってやりました。「あなたさ~、色々な人が通る中で目をつけられたのは、余程頼みやすい雰囲気と顔をもっていたんだね~。」すると息子は「俺もそう思った。」とあっさり認め笑ってました。小さな思い出を残して夕方、千葉の自宅に戻っていきました。