月別アーカイブ: 2016年9月

(私が学んだ)霊格を上げる方法(1)

気功師をしながら、スピリチュアリズムを勉強していて、わかったこと、今の時点で私なりに理解したことを書いておこうと思う。まず、なんで自分がこうして生きて、ここにいるんだろうと人なら必ず考えると思うのだが、(私も幼稚園の時から不思議だった)私は以下のことを学んだ。現在は、生前から死後までずーっと続く魂の履歴のほんの一時であること。全てが魂の向上を目指す壮大な計画の、自分も一部であること。そして、この世はそのために魂を磨く磨き砂が(あり難いことに)あふれていること。磨き砂は合わない他人であったり、劣悪な環境だったり、病気、事故と普通には不幸と考えられるものだったりする。それを磨き砂にするか、挫折の原因にしてしまうかで、その後の人生の明暗を分ける。

ピアノの発表会でいただきました。いつまでも美しく咲いています。

ピアノの発表会でいただきました。いつまでも美しく咲いています。

理不尽だらけの世の中だけれど、「天網かいかい、疎にして漏らさず」という言葉がある。老子の言葉で、「悪いことをした者を、天は決して見逃さない」という意味だ。日本にも「お天道様は見ている」という言葉がある。意味はほとんど同じである。英語でもこんな言葉を見つけた。「Heaven’s vengeance is slow, but sure. (天罰はすぐにはこないが、必ず来るものだ)」 こうしてみると、悪事する者には天罰があるというのは、古今東西、普遍的な事実として受け止められていたのだろう。

しかし、私は悪いことばかりではなく善行も天は見逃さないだろうと思う。スピリチュアリズムは「天罰」というよりも、良いことも悪いこともしたことは全て自分にかえってくるという考え方をする。(カルマの法則)でも時代によって「良いこと」「悪いこと」の基準は違ってくる。部族間の闘争とか戦争中は人を沢山殺した人が英雄だったりするように。では人は何に善行の基準を見出せばよいか?(2に続く)

 

 

人生の点と線(2)

ここからは又、スピリチュアリズムの知識だが、最後の点=死の時点の霊格で、波長の法則であの世に平行移動する。私的表現では縦軸の同じ座標に平行移動する。そこでは、同じ波長を持った者が集まっているので、あの世で住みやすいか住みにくいかは、それこそあなた次第、ということになる。

遂に掲載する写真が尽きた。母の大きな目が好きで四角い輪郭は嫌いだったが、目は似なくて、輪郭だけ似てしまった。

遂に掲載する写真が尽きた。母の大きな目が好きで四角い輪郭は嫌いだったが、目は似なくて、輪郭だけ似てしまった。

それでは散々悪いことをしておいて、最後だけ悟りを開いて霊格を上げればいいかというと、どうも、そうは問屋がおろさないわけで(古い表現だけれど、他に言い換えできない)あの世でじっくりしなければいけないことは、この世で生きた自分の軌跡をしっかり検証することらしい。つまり、それを行なった動機と共に自分で描いた線を見つめ、反省しなければいけないようだ。その時には「しまった。せっかく霊格を高めるために生まれたのに、やってしまった。勿体無い事をした」という忸怩たる思いもするという。

そういうことがない様に、今からでもできたら一直線に、縦軸の上を目指したい。もう人生の2/3は過ぎてしまったので、少々あせる思いがあるが、なんだか闇が段々濃くなってきた世の中。この中でしっかりと、ともし火となり、霊格向上を願う人達と周りを照らしながら上を目指そうと考えている。

追記:人生の点と線(1)(2)は、あくまで自分が今まで学んできたものを基に「私はこう考    える」ということを書いたもので、絶対的なものではありません。もし、間違ってい     た、という所がわかれば、今後訂正いたします。あしからずご了承ください。

人生の点と線(1)

何度か書いたと思うけれど、スピリチュアル・ヒーリングなるものがあって、(一番初めに行なったのはイエス・キリスト)これと比べると中途半端に遠隔診断・ヒーリングをしている私にとっては目標の一つになる。遠隔を気功の一部と思ってやっていたが、ある方に言わせると私の遠隔は気功でもスピリチュアル・ヒーリングでもなく、念力の一種だろう、ということだった。スピリチュアル・ヒーリングを行なうには、どうも天上の方に、私を「使える」と思われることが必要で、それにはまず、スピリチュアルな世界を知ることが必要と思い勉強している。

と前書きが長くなったが、勉強している中で、「宿命」と「運命」という言葉に出会った。「宿命」は自分で変えられないもの、生まれてきた国、地域、家庭、性別で、「運命」は自分で築いていくもの、それは始めから決められているわけではなく、努力次第で違った道が開ける、とここまでは良くわかった。でももう少し学ぶと、どうやら生まれてくる前に大きな病気や事件、死ぬ時や死に方も決めてくるらしい。なんだ、ではどうあがいても、やっぱり人生の大事なことはほとんど決まってるんじゃん、と思った。思ったがスピリチュアリズム自体は深いので魅力があり、勉強し続けた。

 

京都の現代的作庭。石の配置に美を見出す民族もあまりいないのではないのだろうか?

京都の現代的作庭。石の配置に美を見出す民族もあまりいないのではないのだろうか?

すると最近、次のようなことが閃いた。生まれてくる前に自分が守護霊や、高級霊と話し合って(口があるわけではないので、正確には通信し合って)生き死にと大きな事を決めてくる。何の為?これはひたすら、自分の人格=霊格を磨くためらしい。この世で自分の弱さや欠点をみつめ、改善、克服するため。ここまでは、スピリチュアリズムから得た知識である。ここからは私の考えだが、では「運命」はどこでどうやって働くのだろう。思うに、生まれた所を点として、これは自分の努力では如何ともし難いので固定した点と考える。後の点(大きな病気、事件)は移動可能と考える。その間をつなぐ線が運命だ。縦軸は霊格向上の指標、横軸は時間の経過。自我が芽生えた頃から自分と周囲の葛藤が始まり、でも幼いなりに我慢したり努力して霊格が上がっている。決めた点はどこでくるかわからないが、やってくる。その後、自分が意図した通り、そのことによって何かに目覚めて霊格を上げるか、反対に負けて下げてしまうのかは本人次第。点と点を繋ぐのは直線とは限らない。ほとんどは曲線だろう。最後の点は終着駅=死であるが、この点が縦軸の上にくるか、下にくるかは、その人次第ということになる。生まれた時より最後の点が下になってしまう人もいるだろう。

時について

建物の玄関で見かけた花。花はどこにあってもそこに花を添える。

建物の玄関で見かけた花。花はどこにあってもそこに花を添える。

人生はよく「旅」に例えられる。電車に乗って外の風景を見ているうちに、時間と人生について考えた。何もしないでぼんやりしていても、時間は過ぎていく。時間は窓の外を過ぎ行く風景だ。変わっていく社会の状況かもしれない。人生はいつも電車に乗っているわけではないが、自分は座っていることしかできなくて、ただただ時間だけが過ぎていく。そんな時もあるだろう。そういう時はゆっくり座って風景を眺めるか、或いは居眠りするのもいいかもしれない。目的の駅に着いたら、電車を降りてまた元気に歩き出そう。或いはそのまま「死」という終着駅に着くかもしれない。それでもいいではないか?人生を生き抜いたのであれば。考え方を変えれば、何もしなくても電車という時が私達を運んでくれるのは「生き抜く」ということを目的とするならば、一つの救いだろう。もし電車の中で、色々なことを考えることができたら、それは後で大きな実りになるかもしれない。引きこもっている方達やフリーズしている方達もこんな風に見方を変えて、人生を乗り切ってほしい。

前に書いたかもしれないが、もう8月にクラスの忘年会の計画を立てて、クラスの予約を入れなければならなかった。予約を入れた途端、なんだか12月が急に現実的になり、思わず「え~、もう今年、終わっちゃうじゃない。早すぎる~。」と嘆いたら、「冨田さん、予約ですから。」と慰めてくれた。でも書類を見ていたその方は次の瞬間、「あっ、もう1月の予約が出来ますけれど、どうします?」と言ってきた。Time flies! (光陰矢の如し)