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スピリチュアリズムで学んだこと

スピリチュアリズムという一種の精神学を学んで5,6年経つが、時々根本的なところが私には抜けている。たまにそれに気がついて「これはどうなんだろう」と思っているとすかさず答えに出会い、誰かにというか、多分神様に近い存在の方に見透かされている様な気になる。スピリチュアリズムに出会った頃はいちいち仰天していたが、最近はただ有難くその答えを受け取っている。

今日はハロウィン。母の施設の玄関にて。

今日はハロウィン。母の施設の玄関にて。

最近気がついた大きな間違いはこれだ。スピリチュアリストというのはスピリチュアリズムに関わっている人のことを言っているのだろうと思っていたので、勉強している私も「スピリチュアリスト」と自負していた。けれどそれで本当にいいのかなと思い始めた矢先、あるサイトでスピリチュアリストの定義に出会った。条件は二つ。一つは霊魂の存在を信じ、死後も霊魂の世界があることを認める。二つ目は死後の世界にいる霊魂と交信できること。これでいくと残念ながら私は二つ目の条件は満たしていないので、スピリチュアリストとはいえない。いやほんの時たま正確なインスピレーションを頂くが、交信とまではいっていない。

理由はわからないが、遠隔はある程度できるので中途半端でも向こうの世界につながってはいるのだろう。さて、これからどうするか?交信できるようにして本物のスピリチュアリストを目指すのか?気功師としての質を高めてスピリチュアル・ヒーラーを目指すのか?でもよく考えたらこれって先では繫がっているな。当分、気功師の養成に力を入れて(順調に育ってきています)一緒にヒーリングできる方を増やしていきたい。後は神様の言うとおり。〈思し召すまま)

そろそろ始動

巨大白菜断面図。

巨大白菜断面図。

年末年始は例年になく忙しかった。20日過ぎて熱海と大阪に一泊し、、年があけてから金沢に行った事もこたえた。この三連休は比較的ゆっくり過ごし、(それでも母のところ、高幡不動、どんど焼きと毎日でかけた)やっと心身ともに充実してきた。そろそろ気功の今年の方針を考えなければいけない。(少し遅い気もするが)気功のことは決まり次第ここでも書いていきます。

14日の今日、どんど焼きが終わってやっとお正月が終わったような気がした。ゴミ出しも今日の

白菜の4/5はお鍋のとお雑煮で消費された。

白菜の4/5はお鍋のとお雑煮で消費された。

可燃物を出して平常に戻った。疲れていたせいか、明るい思考ができなかったのだけれど、ゴミ出しの時に不意に感謝の気持ちが湧いてきた。ゴミを捨てられる幸せ。回収してくれて処理してくれる人やシステムがある。そういったものの上にたった快適な生活ということは忘れてはいけない、としみじみ思った。

スラム街では大抵ゴミが道路に散らかっている。生活の中にゴミが入り込んでいる。被災の地域ではいまだにゴミの処理におわれている。ゴミを出せる幸せは小さくないと気づいた一日だった。

 

 

 

 

Inspirationと霊能力

若い頃からいわゆるInspirationを得ることがあり、時々親戚を驚かしてきた。何も考えてないのに突然「従姉妹のCが外国の人と結婚しようとしている」と脈絡もなく頭に浮かび、自分でも「何?」と思っていると叔父が相談の電話をかけてきて、出るなりそのことを言うと、「何で知ってる」と仰天させたり。長野の父が倒れたというInspirationが入った途端、義兄からそのことで電話が入ったり。従兄弟の大学受験の合否を全部当てたり。

時々雲に竜神様を見ます。

時々雲に竜神様を見ます。

だけどいわゆる霊能力ではない。決定的な違いは自分が知りたい時、或いは相談された時にInspirationを受けるということが全くできないことだ。誰かが必要だと思った時に私に教えている、ということだと感じている。一歩間違えば精神病ではないか、と心配する方もいるだろう。ご安心ください。全ての人はInspirationを受ける資質はもっています。(虫の知らせという言葉があるように)ただそのsensorが鋭敏であるかどうかだけ。

そして幸か不幸か、Inspirationはほとんどの場合、人の役にはたっても現世的な自分の利益には全く役にたたない。つまりそういう意味では羨ましがられるものではなく、ただそういう体質というだけのものですね。

今日は長いブログ

日曜日にヴェトナムから帰って参りました。一言で言うと、修行の様な旅でした。このことは明日からのブログに載せます。今回は今日お会いしたHさんと「蜘蛛の糸」について素敵なお話ができたので、それを書いておこうと思います。まず、「蜘蛛の糸」は芥川龍之介原作だと思っていましたが、原作はドイツの本だということを教えて頂きました。私にとってこの話は年を取るにつれて意味が変わり、まさに今、世界のみんなが噛み締めればいい話だと思っています。

お釈迦様は何故、せっかく救おうとしたカンダタの上で糸を切ったのか?カンダタの一番の罪は「差別」だと思う。自分と自分と同じように救われたい人を差別し、自分だけ助かろうとした。自分も自分に続く人達も同類だという強い意識があれば、他の者は又地獄に落ちればいいとは思わなかったのではないだろうか。だが「人の手柄で自分もあわよくば助かりたい」と思った他の罪人達も結局は天国へ行けなかったことを考えると、本当の反省なくしては救われないということも示唆しているようにも思う。

バチャン村で絵付けをする人

バチャン村で絵付けをする人

よく考えると、世界のあらゆる問題、紛争、悲惨は全て「差別」が関係している。自分だけが正しい。自分だけが得したい。それが自己完結的なものであればまだしも、人との関係において自分の優位性を主張し始めると「差別化」が生まれる。カンダタは大泥棒ということだけれど、お釈迦様から見れば私達は地球の資源、自然から搾取の限りを尽くしているという点で全員大泥棒。大泥棒ではあるけれども真・善・美を多少なりとも理解できるという点で、まさしくカンダタそのものであろう。

私は気功師であるということとは別にある精神学を学んでいて、そこに「類魂の法則」というのがある。笹川流に言うと、「人類みな兄弟」という法則である。こういってしまうと分かったような気になるが、実生活に当てはめると本当の理解はなかなか難しい。でも「蜘蛛の糸」に当てはめると意外とわかりやすい。

既に自然から搾取するだけではなく、大気を、海を、大地を汚してしまった私達はカンダタ以上に罪は重い。とすると「よりよく」するための手段は二つ。一つは同じ泥棒同志、手を取り合って少しでも地獄の中を住みやすい場所にするか、或いは一人一人が心から反省してもう一度「蜘蛛の糸」が降りてくるのを待つのか。「蜘蛛の糸」から深い話に発展して、とても有意義な時間を過ごすことができた。

エミリ・ディキンソンの詩

5月の詩の朗読で、エミリ・ディキンソンの詩を教えて頂いた。彼女は全米最初の女子大を出たが、協会とも家族とも社会とも合わなくて引きこもりの生活をし、独身のまま56才で亡くなった。詩の中で、何かの本質を知るにはそれに対する飢餓感が必要だ、とうたっている。例えば「成功をもっとも甘美だと思うのは 一度も成功したことのない人たち。 美酒の味を知るためには 極限の乾きが必要だ。」というフレーズがある。

彼女に捧げる白い花

彼女に捧げる白い花

これを読んでいるうちに、食べ物が美味しいと思ったことがない王様に「一番おいしいものを食べさせます。」と言った若者が一日中王様を働かせて、その後食事をしてもらい、王様がその美味しさに感激して約束を果たした、という物語を思い出した。彼女が得られなかった外での自由、他人とのぬくもり、日本でのおいしい食事、慣れてしまえば有難さがわからなくなる。社会や政治に対する冷静な眼と批判は大事だけれど、日常の一つ一つのことに感謝の気持ちを忘れてはいけない、と詩が教えてくれた。「彼女は色とりどりの箒で掃く」で始まる、夕焼けの美しさを擬人的に歌った詩もとても素敵だ。

 

「朗読」とはどういう行為か

やっぱり生きているお花が好き

やっぱり生きているお花が好き

ドリアン助川さんの立川での朗読の授業は、今日で終わった。久しぶりに文学的世界を堪能できて充実していた。「朗読」とは、詩や文章から受け取るイメージを他者に伝える行為である。イメージを持つ、持たないでは朗読の説得力が違い、受け取る側は自分なりに又そのイメージを膨らますだろう、と教わった。

詩を読むと、詩人の気持ちの底がわかる。宮沢賢治、高村光太郎、草野心平などを読んだのだが、他者に向けて読むには、確かに自分がどれだけその詩が作る世界を捉えられるかが迫られる。ピアノを弾いている時は手という肉体を通して、作曲家の内面に入っていく感覚だが、朗読は発声器官から詩人の精神世界へ侵入する行為だと思う。明日もこの続き。

芸術についての私論

人間を人間たらしめているものは、やっぱり芸術だと思う。芸術は感性の表出。色々な芸術論が出ているのでここでなんだかんだ言うつもりはないが、やはりひとこと言ってしまうと、一度芸術という形になってしまえば芸術は一人歩きをして作者の思いから離れていく。そして一つの作品から受け手の数だけ芸術が出来上がる。絵画は観者の一人一人の思いの中にその本質を沈め、音楽は絵画と違って弾き手の感受性をはっきりと表現する。ある意味音楽は、作者と演奏者の合作となる。

日本のガラス戸は何枚もの額縁

日本のガラス戸は何枚もの額縁

そういう意味ではシンガー・ソングライターは矛盾なく作者の意図が表現できるわけだ。絵画など作者が亡くなった途端、値が上がるという世俗的な現象が起きることがある。世に認められないまま亡くなった画家も多く、unfair(不公平)と昔は憤慨していたが、最近少し違った考え方をしている。「あの世では思い出してもらうことが大変な喜び」と聞いたことがあり、絵画や音楽を通して思われるのは本人にとって幸せなことなのだろうと思う。作者不明のものは?芸術家にとって作品は自分の一部なのだろうから作品が愛されること自体が作者の喜びになるだろう、とこんな風に考えるようになった私は成長したためか、老成したためか?私も何か本でも書いてみようかな。

人生を楽しむために

人間が生き生きと生きていくのに必要なのは、衣・食・住と人生を楽しむ心だと思う。今日の朗読の授業で先生が、何をしても楽しいと思う人とつまらないと思う人がいて、一つ一つの積み重ねによって人生の充実度が違ってくる、とおっしゃっていたが本当にそうだと思う。

反対から見れば、普通に衣食住があり楽しめる心さえ持っていれば、人生、楽しめるわけだ。自分の人生を楽しみながら、真善美に対して敏感であり、又自分のことだけではなく、人の喜びを心から共有できる(悲しみを共有するより難しい)人間でありたい。授業の中で「息をすること」の中に生きる喜びを見つけて歩くという運動を展開した(している?)テイック・ニャット・ハンさんの詩随筆を読むことが出来た。これは究極の「生きる喜び」だと感じた。

日本家屋の美しさ

日本家屋の美しさ

素晴らしい公演二つ

今日は午後から、素晴らしい公演を二つも見ることができた。一つはダウン症という個性を持ったリコーダー奏者の荒川知子さんとご家族のアンサンブル。第二部はフルート奏者のお兄さまとピアノのオリジナル曲を中心としたコンサート。どちらも美しい心がそのまま伝わってくるような演奏で、一時ざわついた世間を忘れた。第一部の「二羽の鳥、とびながら話している」は兄弟の演奏で息もピッタリで、お兄様が妹に「上手くなったね。」と声をかけられていたのがとても微笑ましかった。

CIMG0451夜はドリアン助川さんの「ブカレスト プノンペン チェルノブイリ フクシマ!」というタイトルでピクルス田村さんという若い青年と3時間近くぶっ通しで、リアルな写真を見せながら朗読と歌で語りかけてくれた。朝日新聞の人生相談で有名な方で、自作の詩も朗読も一つ一つ説得力があり、チェルノブイリ以外は自分で回っているので「現場の空気」をよく伝えてくれた。ある程度知っている、と思っていたのにそれが表面的であることがよくわかり、ライブの迫力と相まって衝撃的な感動だった。かなり深刻なテーマだったのに気持ちが暗くなることもなく、「現実」として受け止められたのは少し不思議な体験でもあった。

宮沢賢治の詩

宮沢賢治の詩を聞く機会があった。有名な「雨ニモマケズ」。読む人によって味わいが全く違う。今日の方は、素朴で自分に正直だった賢治の思いをよく汲んでいて心にじんじんと詩が入ってきた。賢治も満足していることだろう。私が読んだら、勇ましい宣誓文になってしまうだろうと反省した。

あれっ、もうつつじ?

あれっ、もうつつじ?

この詩の中で「あらゆることを 自分を勘定に入れずに」という言葉がある。賢治の時代にさえ、これが難しかったので賢治は詩に入れたと思う。今の時代ではなおさらだろう。詩を読んだ方の「あらゆる悩み事、争い事は自分を勘定に入れるから」という言葉にすごく納得すると共に、若い時言われてもぴんとこなかっただろう、年相応にわかるようになった、と自分を見つめなおした。