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ご無沙汰しました。

今年になって今日が初めてのブログです。申し訳ないです。実は去年クラスで「一月にまたコロナが再燃したら、もうクラスはやらない。」と言ったので、(その時は一月がこんなに凄くなるとは予想していなかったのですが)クラスは暫く冬眠状態にしようと思っています。クリスマス、初詣の人出を考えると、この感染拡大は当然予想してなければいけなかったのに、と脇の甘さを認識しています。

私はワクチンを打ってないので新規募集はしてこなかったのですが、7月で満10年になるし、これからは様子を見て今までの方と年三回程度集まり、それもクラス形式でするかしないか考えています。たとえコロナの勢いにストップがかかったとしても、今までの反省をして、自分自身もっとレベルアップして新たに出直すつもりなので、暫くクラス講師としての活動はしません。

その様に決めた頃、ふと音大の広告が目にとまりました。短大ですがシニアも入れる課がありました。気功師として皆に教えようかと思っていた頃、いや、音大にも行きたいと迷ったことがありました。でも既に両親の介護が始まっていたので、音大の夢は諦め何とか時間が作れる、気功師の先生をとったのです。

一月六日は母の祥月命日でした。先生のお母さまと言っていい方の亡くなった日と同じで驚きました。

このコロナで命のはかなさを痛感し、自分が死ぬ時何も執着がないようにと思っていたところだったので、そうだ、音大にチャレンジしてみようと決心しました。ピアノを思う存分弾いて、できたら音楽を使って前から気になっている虐待児の問題に踏み込みたい。という訳で、毎日ピアノを弾くのに忙しかったこともあります。

子供達はあきれていますが、やめろ、とまで言ってないので、好きにさせて頂きます。気功師までやめるつもりはありませんが、多分これで収入を得ることは無くなるので、個人事業主としては辞めざるを得ないかなと思っています。

まだ願書も出していない状況ですが、受験講習会でピアノで受かりそうもなかったら、作文で受験という手もあったのですが、講習会の先生は「ピアノで大丈夫じゃない?」と言って下さったので毎日ピアノに向かっています。

では、二月、結果は三月になりますが、いい報告ができるように頑張ります。不合格かもしれません。それも報告します。助け合いつつも自分の人生は明るく築いていく覚悟です。スピリチュアリズムも手放しません。音楽をすることにより、一層理解が深まると信じています。「立派に生きることが人生の目的ではありません。生き抜くことに価値があります。生き抜くことが人生の目的です。」これが私の一番好きな言葉です。

 

 

鍋理論

どう考えても、日本人の不安は大きくなっている。自然、年金、食に職。生活に直接関係するところが危うくなっているような気がする。特に食に関しては「飽食」の時代はとっくに終わり、まともに食事ができない人がいるし、子供でも一日一食の子どももいるようで本当に心が痛む。

では、どうすればいいのか?「鍋理論」と私が名付けたのであるが、これからの世の中はこの「鍋理論」でいくしかないと思う。前にも書いたのだが、皆で材料を一つずつ持ち寄る。少し余裕のある人はお肉とかお魚とかを買ってもっていく。自分のうちで作った野菜でもいい。重ならないように持ち寄り、それを鍋の材料にして、皆で食すことにより栄養的にも偏らない美味しい食事が楽しくできるわけだ。

「世の中に才能が無い人はいない」そうなので、それを自覚して一人一人が皆のために提供していく。大学時代、何浪もして入ってきた人でお勉強は不得意だったかもしれないが、学祭で「物を売る」ことがすごく上手な人がいた。何故かその人が声をかけると吸い付けられて、にこにこしながら商品を買っていく。卒業後、不動産会社に就職したらしいのおうが、さぞ優秀な営業マンになったに違いない。

自然の造形美は素晴らしい!

今、AIが台頭してきたこともあって、人の能力や技術がいらなくなってきているように思われるけれど、AIに感、気転、思いやり、機微はない。人は人によってしか本当のところは癒されないし、成長できないと思う。

金銭的にはかる能力ではなくて、それぞれが自分の中の得意な面を発揮してお互いに助け合うという意識を持てば、つまりそれが「鍋理論」なのだけれど、この生きにくい世も生き抜けるだろう。

私も平均余命まで、後20年ほどなので気功や音楽の技術に磨きをかけ、と鍋に放り込む良い材料としたい。

 

 

今の思い

前回のブログで、何もできない弱い立場と書いたけれど、もし何かできる立場であれば、正直物凄くしんどいと思う。それだけ責任が重くなるから。という感性が正常だと思うのだけれど、どうも実際に世を動かせる立場にある人たちは、そういう風には思わないらしい。

私には、火の手が周りから迫っているのに何も気が付かないで、自分たちだけの世界にとらわれている人達のように見える。もしかしたら日本人全体が、私も含めて、そんな状態かもしれない。テレビは深刻な問題は避けているようにみえる。辛くても、まず現実を直視しなければ。

愛の反対は無関心というけれど、明らかに大変な世になってきているのに、何かあっても「なかった」ことにしたり、苦しんでいる人のことを見ないことが、若い人の自殺の上昇につながっているのではないのか?

ニュースの中でも虐待死は、胃が痛くなるほど聞きたくないニュースだ。ある程度の年齢になれば対抗できるけれど、そしてあの女の子は健気に闘ったけれど、結局親に殺されてしまった。私は全く福祉に関しては素人なので、何かできるとは思わないけれど、虐待防止の種くらいはまきたい。

これは可愛いですが、ハロウィンはケルト人の悪魔崇拝のための生贄の儀式だそうです。怖いです。

(自分で言うと自慢に聞こえるかもしれないが)アメリカに行った時、「日本人らしからぬ大胆さ」を次男から褒められ(?)実行力は昔から折り紙つき、後、自分の損得を考えないで良く「割を食う」ことがある一種の頭の悪さ、これらが資質として備わっているようなので、これらを武器(?)に気功も手放さず、社会貢献していこうと思う。

スピリチュアリズムを勉強して、「天は見てござる」と本当に思えるようになった。ご先祖様、守護霊を通してつながってくださることがある高級霊の方々、こうご期待!

サーフィン処世術

最近、気持ちの持ち方で、これはいいな、と思うことを考えた。名づけて「サーフィン処世術」。どういうものかというと、海で常に来る大きな波や小さな波を人生を歩んでいく上での試練、困難、または人からの働きかけ、と考える。

ここが大事なポイントなのだけれど、自分の軸をきちんと持つ。今までの人生経験からきたものが土台となるが、頑固であってはいけないし、常に修正していく必要はあるけれどこれが、自分の軸という意識できるものを持っておく。

そうすると、大小の波を転覆することなく、ダメージを受けることなく乗り越えられる。例えば、人から理不尽な扱いを受けたり、不幸と思えることがあったとする。ともすると恨みつらみ、憎しみになり、ひどいと自分の運命さえ呪うことになる。

でもこれは、大きな波だ、乗り越えてしまおう、と思えれば、自分をゆがめることなく進んでいける。その人になおかつ、慈愛の眼差しを向けたり、禍を転じて福となすことだって可能になる。自分の軸は変わらないのだから。

今日の内容は硬いので、少し夏らしい画像を。気にいってるお皿です。

とは言うものの、これはほとんどイエスの境地で、私達凡人にはとても難しいかもしれない。でも、このサーフィンをイメージしただけで、何か余分に悩むことがずっと少なくなった。私はずっとスピリチュアリズムの勉強をしているが、乗っているボードはこのスピリチュアリズムだと思っている。その上に自分の軸をどう作っていくか、これからの人生の課題であり、楽しみでもある。

 

広がる網目 byほとんど犬の遠吠えsan

今こそ、文明や科学が発達したところで、人の幸せにはあまり関係ない、ということが証明された時代はないのではないか?

神は人間に十分幸せに暮らしていけるものを、海に山に大地に大気に与えてくださった。それを「地球は虐待されている。」という人がいる程、取りたい放題で、取るばかりでなく汚し放題、遂には自分達の首も絞めようとしている。

人は自分達のためにセーフティー・ネットを作ったはずだ。けれど日本の現状を見ると、その網目がどんどん広がっているようにみえる。そうすると、こぼれ落ちる人が増えるわけで、そういう日本に悲観したのか、若者の自殺が特に増えているそうだ。中高年のひきこもりも同じ。

人の価値基準がもはや「人間性」や、他者に対する「やさしさ」にはなく、お金をどれだけ所有しているか、どれだけ稼げる人かで見るようになってしまった。「安楽死」は自殺であり、殺人者を作ってしまっているにもかかわらず、そのうち「潔く生を諦めた」人として賞賛されるかもしれない。とんでもないことである。

どんな状況でも、たとえこの世が地獄に思えても、(あの世からみたら、この世は地獄のようだが)劣悪な環境の難民や、トップが独裁者でも胸をはって生きている勇敢な人達の爪の垢を煎じてでも、「生き抜く」のが大事だ。

とこれは、最近、自分ではどうしようもないことが起きつづけている、自分に向かって言っている言葉でもある。なぜなら、地球民である限り、または日本人である限り、全ての責任の一端は私にもあるのだから。

たくましく生きることを草木に学ぶ。

7月上旬から中旬は、アメリカに会社から留学している(カーネギー・メロンとやらに。オレンジではない。)次男のところに飯炊きにいきます。ただ一つの心配はピアノがあるのか、ということ。どこか弾かせてくれるところを捜しておいて、と頼んだけれど心もとない。大体、「来て、来て。」いっていた割には、いざ行く、となったら、「長いね。」と迷惑そうなのはどういう訳だ。大いびきかいて、睡眠妨害してやろうか、と私もまだまだ煩悩の人です。

 

 

怒るが負け

今回のGWは長いなと思っていたが、孫の世話、空き家になっている実家の私道の話し合い、スピリチュアリズムの勉強のため千葉へ、とどたばたしているうちにあっという間におわってしまった。久しぶりに友達三人と会って話ができた日が一日だけあった。

GW一日目に、孫二人と三男と浅草花やしきに遊びにいった。お天気があまりよくなかったせいか、そんなに混んでいなくて次々と乗り物に乗せることができた。最後には疲れたのか、一台持っていったベビーカーの取り合いになり大喧嘩が始まった。するとそれまで、やさしく付き合っていた三男が怒った、というかきれた。

すると余計ぎゃーぎゃー二人で泣いて、収拾がつかなくなってきた。「眠くなってきたのだからしょうがないのよ。」と三男をなだめて何とか帰途についた。三男は憮然としている。子ども達は一人はベビーカーで、もう一人は腕の中で寝てしまった。

電車の中で目を覚ました子供達は怒られる前と同じ様子で、「叔父さん、叔父さん」となついている。三男は、というと何となく照れている。それを見て、「はい、怒ったあなたの負け。」と思った。

図書館の花、誰に向かって咲く♪

社会学者の方が新聞の記事で、祖母に言われた話として書いていたことを思い出した。(違っていたら失礼します。)おばあさんは「青い鬼」はダメダとその方に言ったという。あ=あせる、お=怒る、い=威張る、お=おごる、に=逃げる、成程、これを忘れなければ確かにスピリチュアリズム的にも幸せになる。わかったかな、三男君。

ボランティアは難しい

ボランティアと言えば全ていいことの様に思うが、時々疑問に思うことがあった。一つは相手にたいしての押し付けではないか、ということだ。これはもう常識だけれど、海外で支援を計画している地域にお金をつぎ込むだけでは、いつまでたっても状態は変わらず、その地域が自力で生活できるように、援助していく、自分達の力を発揮できるようにすることが援助の第一目的になっている。勿論そのためにはお金も必要であるし、子供の衛生のための医療用品も揃えなければならない。

さて、もう一つの要注意のボランティアの側面は、自己満足や自己承認欲求のために無意識にボランティアを利用してしまうこと。ボランティアグループの中で派閥ができたり、いじめがある話を聞いたことがあるが、これはまさしく自分のためにボランティアをしているからなのだろう。「相手の喜ぶ顔がみたい」というのも自己満足で一種の依存だったりする。時流で高揚した時だけ流行にのってボランティアに行くのは、行かないよりいいと思う。でも本当のボランティアとは、相手を良く見て、本当に必要な時に必要なことをすることなのだろう。

4時頃の我が家の庭の様子。肉眼ではみえなかったいろの付いた光はな~に?

とはいうものの、100%純粋な人はいない。要は、自分の中に本当のボランティアに値する動機があるかないかを内観することによって随分違ってくると思う。表面的にはその時は同じに見えても、その後の生き方が全く違ってくるだろう。

もう一つ、狭い話で寄付について。私は小額をちょこちょこ寄付しているが、寄付もボランティアと一緒で大変難しいと感じている。どういう所にどれだけするか。うちの両親は裕福の部類に入っていたと思うのだが、途中まで一切しなかった。母はある団体に一年に一回会費を送り始めていたけれど、母が倒れると父はやめてしまった。

いつの時代も誰でも将来の不安はある。それは自分だけの縦の世界。自分が生きているこの時代、同世代の人間と横の広がりを意識すると、自然と応援したくなる人達が沢山いる。そういう動機がなければ、全て自分の自由になるお金から寄付していくのは難しいことだろう。不安も人の欲も際限ないから。お金はまさに自分の霊格を問う試金石、ということを肝に銘じて、これから扱うことになるだろう遺産の相続(決して多くはないが)を進めていきたい。

(私が学んだ)霊格を上げる方法(2)

「霊格を上げる方法(1)」から時間がたち過ぎてしまい、何を書いたかわからなくなってしまって、見直してみたが、なかなか的を射た(「得た」でも間違いではないらしい)ことが書いてあった。(自画自賛) 話を戻して、どうやって霊格を上げるか。

母のいる施設のハロウィンの可愛い飾りつけ。

母のいる施設のハロウィンの可愛い飾りつけ。

これは学んだことを基礎にした、あくまで私の考えだけど、霊格を上げるには消極的方法と積極的方法があると思う。積極的方法は、ひたすら他者、特に助けを必要としている人、いわゆる社会的弱者を他人ごととしないで関心を持ち、できる範囲で、或いはできるできないさえも考えないで、ひたすら寄り添うこと。なにかしてあげようと思うと、上から目線になってしまうかもしれないが、その人の立場になり自分だったら何をしてほしいか考えることが大事だと思う。

マザーテレサやイエス・キリスト、日本でも叡尊がそういう生き方をした人達だ。社会的弱者に対して貶めたり、見て見ぬふりをしなかったどころか、一人一人の中に神をみた。叡尊の時代は阿弥陀仏の生まれ変わりと見ていたりする。ここら辺のことを書くだけで一冊本が書けそうだ。

勿論私は、そんな大役は上の世界から期待されていない。(だろう)でも聖人と言われた方達の、他者に対する心構えだけはお手本にできる。困った状況にある人達の中に神を見て自分がどう対処するか考える、少なくとも我が事としてみる。困った人だけではなく、誰に対してもこういう視点をみんなが持てば、世界は必ず変わってくると思う。消極的方法は(3)で。明日書きます。

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。遅い新年のご挨拶で申し訳ありません。今年の新年の誓いを自戒の意味も込めて書いておきます。

○規則正しい生活(毎年書いています。特に夜ギンギラ型なので、朝の早起きが苦手。皆さんに言う割には早朝の太陽エネルギー摂取がなかなかできず反省)

○体に合わないコーヒーは飲まない。(上記のこととも関係あるのですが、朝ぼーっとしているので、ついコーヒーを飲みたくなる。どうもコーヒーのカフェインが私によくない。デカフェのコーヒーやココアと混ざっているのだったら大丈夫。紅茶は大好き。)

○気功の仕事に関しては最善を尽くす。(偶然とはいえ、今年は江原さんのおみくじ、谷保神社のおみくじ、以前大凶が出た高幡不動のおみくじ、《この年、母が倒れた!以来要介護5》九星気学、中森先生やクラスの方が新宿のミロードでしている算命学、どれをとっても最高。心して過ごさなければチャンスの尻尾を捕まえられない。)

○うちの整理を頑張る。(次男が断舎離に目覚め、お正月に帰った時、うちに置いてあった荷物を大量に捨てていった。母も頑張る。)

○音楽関係をおろそかにしない。(何だかんだと宮地楽器で三っつの講座をとっている。先々音楽を使って、オリジナルの傷ついた子供のためのプログラムを立ち上げたいと考えているので、着実な基礎作りをしたい。)

○二人目の子供を持つ長男夫婦のお手伝いをできるだけする。(長男夫婦にとっては本当は一番に掲げて欲しい項目だと思うけれど、子育ての主体はあくまで両親なので。。。せめてせっせと夕食作るので、一緒に食べにきてください。お互い助け合い、共に生き抜きましょう。)

個人的にはざっと上記のことだけれど、どうもこの先「庶民には苦しい生活」が待っているようだ。これは「屋根から雪がはみ出るくらい積もっている」という夢のお告げがあり、夢辞典で調べてみたらこう書いてあった。もう4年程前のことだけれど。

お正月用に玄関に活けたお花。千両は入ったが松をいれなかったので、クリスマスとミックスの感じになった。

お正月用に玄関に活けたお花。千両は入ったが松をいれなかったので、クリスマスとミックスの感じになった。

スピリチュアル・ペインという言葉がある。病気になった方が体だけではなく、精神的に参ると余計病気そのものも悪くなってしまうようだ。生活が少し苦しくなっても、余計な心配や不安で生きていることそのものが辛くなってしまう、という状態に似ていないだろうか?打開策としては、必要以上にネガティブな感情は持たない、でも現実をしっかりみつめて考える。そして縁ある方しかそれはできないが、大変な感情、状況を共有して励ましあいながら生きていく。

私は、守護霊がいつも側に居て見守ってくれていることを今以上に信じ、意識するよう努めたいが、私の近くに(精神的に)いる人達も私が常に側にいると感じてくれる存在でありたい。

 

 

 

本当に「守る」ということ

前回は「守ってあげたい」ということについて、かなり辛辣なことを書いたが本当に相手を「守る」というのはどういうことか、今回パリのコンサートホール襲撃で奥様を亡くしたジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさんの「君たちに私の憎しみはあげない」という文から教えていただいた。

一文、一文が心を打つので、まだ読まれていない方はぜひ、検索して読んでほしい。 私がこれまで学んできたスピリチュアリズムの精神が色濃く反映され、また相手を「守る」という本当の意味について考えさせられた。現世的に見ると亡くなってしまったのだから、「守って」あげられなかったということになるかもしれない。でもその意味するところはテロリストの勝利だ。

日本の清らかな水と空気を捧げます。

日本の清らかな水と空気を捧げます。

この方は自分の内にある妻を大事にし、大きな視点で「妻はいつも私たちとともにあり、天国で再び巡り会う」と確信している。この視点がなければ「憎まない」ということはありえないと思う。

E氏から「本当のプライドとは、自分の中の大事な人を守り抜くこと」というのを聞いて、?とぴんとこず私の課題だったけれど、今回のこの文章でプライド、相手を守るということがはどういうことかはっきりわかりました。

犠牲になった方達、その家族、関係者に心から哀悼の意を表します。

合掌