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喫茶店から世界は広がる

もう、今日で7月が終わってしまうが、まあ、よく雨の降ったこと。そういえば二年くらい前に「天気の子」という映画を見た。確かあれは東京で、雨が三年ほど降り続くという話ではなかったかしら。今回は東京だけではなく、全国的に降ったので一ヶ月でも量的には同じくらいかしら、とどうでもいいことを思う。でも「天気の子」のような人がいたら、世界は随分助かることは間違いない。

今日、予定外だったけれど「こ〇〇の」という国立の喫茶店でランチを食べた。量も丁度よく、栄養バランスもいい食事を出してくれる。飲み物付きで900円。割のいいスタンプを押してくれる。そこに、話のはずむ20年も勤めていらっしゃるおばさんがいる。帰る時の会話。

私「ああ、もうこんな鬱陶しい世の中、早く終わりにしてほしいわね。」彼女「いや~、終わりになんかならないでしょ。」「三年くらいは続くのかな~。」「もっと、続くんじゃない?政府は老人はみんな死んじゃえば、都合いいと思っているのよ。」「アハハ!(でも政策決定してるのは、みんな爺さんばかりだけどな。)」とバアサン(私)は思う。

何を表現したいんだか。無理に「夏の部屋」

ところで、私は大学生の時に社会学を勉強した。今、社会学だけではなく、色々な立場の専門家から見たら、こんな研究すべき材料がおてんこ盛りの時はないと思う。どうしても、医学、薬学、生物学といわゆる理数科系の方ばかりに目が向けられるが、文科系でも各国のコロナに対する政策決定(政治学)マスコミ学(報道の仕方)人々の反応(社会学)哲学、勿論経済学と世界ほぼ同じ状況の中での比較、議論、分析ができる。ある意味では今、世界は壮大な実験場である。こんなことは滅多にない。転んでもただでは起きない精神で、研究者や学徒は頑張ってほしい。そして未来に向けての新鮮で、有効な研究成果を用意してほしい。

 

 

 

とうとう、また大晦日

ああ、一年は早い。最近特に早い。まだ7月までは何となく月日を意識している。ところが8月になった途端、わ~っと時間が走り出し気が付くと、大晦日になっている。

気功師としてはもう25年、クラスを始めてから8年目に入った。25年のうちには時間にゆとりもある時もあったけれど、クラスを始めてからは常に忙しい。おかしいな、還暦過ぎたらのんびり過ごすはずだったのに。

昨日テレビで、アフリカの動物たちの惨状を報道していた。雨が降らず、干上がっていて瀕死の動物が沢山いた。それだけでなく密猟も横行し、動物の危機に拍車をかけていた。

人ってなんて業が深いんだろう、とため息が出た。「足る」を知らず、飽くなき欲の追求。動物に対してだけではなく自国以外(正確には自国の自分を応援してくれる人以外)の人に対しては、生活する土地が水浸しになろうが、国が水没しようが、温暖化のせいで他の生き物が絶滅しようが、大型台風が生まれて死者が出ようが無関心。

以前にupした立川の写真。気に入ってます。

でもな、と思う。そういう人間の種としては私も仲間なのである。そういうことに対して徹底抗戦できないなら、地球で起きる色々なことを自分のこととして受け止めなければいけない。一方で気功をしている者として、そして何よりスピリチュアリストとして、「祈り」の大切さや「念力」の力を知っているので、やるべきことは沢山あるだろう、と思う。

来年も毎日、精一杯生きて、人生の大晦日に悔いを残さないように頑張ります、と誓います。

 

 

 

 

人の大きさとは

人が大きい、つまり器が大きいとはどういう人なのか、と時々考えていた。気前良く自分のものを何でも分ける人とか、自分の技術を惜しみなく公開して利用させる人、誰にでもやさしい人、でも人間だから表面的なものでは本当のところはわからない。政治家になりたい人の選挙活動中の愛想よさは、選挙後もずっと継続するものではない。人というのは「下心」というものがあるから。

とすると、器の大きさというのは他人からの評価で決まるものではなく、全てはその人の内にあり、大切なのは「動機」ということになる。実は何をするにも「動機」が大事ということは、今学んでいるスピリチュアリズムでも言われている。

さて、動機を決定するにはどうしても「視点」が必要になる。もし、自分のことしか考えなかったら、動機も自分さえよければ、になる。もう少し大きく「家」のことを大切にしようとすると(昔の日本のように)視点は上下に延びる。先祖を大切にして、未来のことも考えようとするが、横方向はどうでもいいので、「戦国時代」となる。水平方向の視点しか持たないと、「今」の世界は大切にするが、行き過ぎると「今」さえ良ければ後は、知らないよということになって、現代のように環境破壊が進んでしまう。

日本の建物の色もカラフルになったけれど、上品さがある。

結局、視点が上下にも水平方向にも向かうことが必要で、しかも先祖も子孫も周りの人も自分と同じように大事に思う気持ちがあれば、かなり器の大きい人になれるだろう。今は、人ばかりではなく、他の生物も自然にも敬愛する気がないと、もう地球は持たないような気さえする。

この立体的とも言える視点を是非持って頂きたいのは、政治家だけれど、「そして誰もいなくなった」政府のトップを始め、その大統領に何故か頭の上がらない〇〇の首相といい、視点がどこにあるのかわからない政治家が多すぎる。いや、自分の国さえ良ければいい、という視点がはっきりしているとしたら、自分だけが良ければいいという考えと、範囲は違うが視点は一緒だろう。

などということをこの年末に考える時間があったのは、母が一月に亡くなって喪中だから。正月飾りは必要ないけれど、大掃除はしなくてはいけないね。明日は大食いの三男が帰って来るし、結局主婦泣かせの忙しい年末年始が始まる。(友達も異口同音に、正月とお盆は忙しくて嫌、と言っております。)

時間の不思議

このところ、皆さんと意見が一致しているのは、「時間の早さ」だ。毎日一生懸命生活しているのに、過ぎ去った時間はとても早い。もう今年は半分終わってしまった。ひょっとして、中身が薄いのかしら?特に予定を入れると、もうそこまで終わった気になるのは不思議だ。

六月のうちに、忘年会の予定を考えた。日曜日は第三なので16日、金曜日も初めの方に設定するつもりだ。そして、1月6日も母の一周忌と決めた途端、完全に今年は終わった気になった。鬼が笑っても笑わなくてもそのような気になって、何だか呆然とした。こんな風に人生って、あっという間に過ぎていくんだろうな。

暑い日に水は救世主

立派なお城を見るたびに、昔の技術の凄さと、それにかけた情熱を思う。しかし、「生々流転」や、鴨長明の『方丈記』の「ゆく「川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という様な言葉を思い浮かべる。いや、もっとふさわしいのは芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」だろうか?戦国時代に生きた人は、堅固なお城を作るのが至上命令で必要なことだった。日本の狭い土地を命をかけて取り合った。それがその時代の「正義」だった。今はお城は観光価値として大事にされている。元の水ではないのだ。

これから不動産に関する両親の「宿題」に取り組まなければいけないが、少なくとも〇〇家をかけての争いという馬鹿げたことにならないように、お城を時々見て方針を誤らないようにしようと思う。それが、お城が時間をかけて教えてくれた大切なことの一つだろうから。

 

「暇」について

「暇」の定義を自分が何かやりたい情熱が失せて、かつ、人から何も求められていない状態、と定義しよう。不思議なもので、忙しい時より何かしら将来や色々なことが不安になる。筒井氏も本に「人は活動的でなくなると日常の瑣末な出来事が気になる。」と書いているので、どうも「暇」は良くない。これが「余暇」というと、ぐっとプラスの響きになるのも面白い。

時々書くけれど、アメリカで非の一点打ち所がない男性が、つまり社会的にも家庭的にもお金、権力全て恵まれていたのにもかかわらず、自殺してしまった方がいた。誰も思いあたる節がなかったようだ。

私はひそかに(彼は暇だったのではないか)と思っている。何も案じることがない状態で却って、生きることの意味を見失ったのではないか、と。

白い百合は父方の祖父が好きでした。

ところで、難民の方の集団自殺とか聞いたことがない。宗教団体の集団自殺は聞いたことがある。戦争状態にある地域の集団自爆も聞かない。そのことを、うちにいらした方に話したら「皆、生きることに大変な所は、生きることに必死で、余分なことは何も取られて、生の本質が見えて、だから大事にするのではないかしら。」とおっしゃった。とても納得した。生きることに必死で「暇」ではないのだ。

自殺したアメリカ人男性のことを考える時、残念に思うのは、もし自分のことだけを考えるのではなく、人のことも考えることができたら、自分が他人のためにどれ程のことができるか気がつき、そうしたら、めちゃくちゃ忙しくなっただろう、ということだ。(彼なりに忙しすぎて自殺した可能性もあり、あくまで私の「暇」だったんだろうという推論にたっての感想)人の立場にたち、行動することによって、人から求められ頼りにされたら、違った種類の生きがいを彼にもたらしたはずだ。

という様なことを暇な時に考えた。あれっ、やっぱり「暇」って必要かしら。

 

ちょっと失礼な話

今日は「食」について、ちょっと失礼な話を書こうと思う。前にも書いたと思うけれど若い時、ツアーを利用して友達とイギリスに行った。その時は七カ国ヨーロッパを回ったのだけれど、一番初めに着いたのがヒースロー空港、つまりイギリスだった。始めての海外でもあった。その時食べたイギリスの食事はどれを食べてもまずくて、荒く刻んだキャベツには、まだ土が付いていたりした。レストランで周りを見回すと、イギリス人が家族でも友人でも、黙りこくって出されたものを食べていた。私達は、「イギリスの人って、食べることが楽しみじゃないんだね。まるで義務みたいに食べて。これだけおいしくなければ、しょうがないか。」などと勝手なことを言っていた。

最近になって、どうやら日本人の食に対する意欲、関心は尋常ではない、ということがわかってきた。ある外国の旅行客の言っていることを耳にした。「『ご当地自慢』と書いてあるので何かと思って行ってみたら、食べ物だった。日本はどこに行ってもそこの『自慢』の食べ物がある。」確かに、そう言われてみれば。。。iイギリスに行って以来、何となく、外国の方は食にあまり関心もなく、味覚もそれなりになっているのだろう、と思っていた。

もうアメリカの生活の方が日本より長くなった姉が、日本でうちに滞在した時、夕食の後、「いいわね。あなた達、毎日こんなおいしいもの食べているの。」と溜息交じりに言った。(私の手料理、少し自慢)確かにアメリカでは生活が忙しく、外で食べるお昼は必ず、マクドナルドの類で毎日続くと本当にあきる。姉は日本人だから、やはり日本食が好きなんだと思っていた。

しかし、最近テレビを見て気がついた。日本の食のおいしさに気がついた外国人が、「これを食べたい」と目指してまで、日本にくる。または海外でも「日本食」はおいしいと、インスタント・ラーメンが人気だったりする。ということは、人の味覚は食べ続けたものを美味しいと感じるだけでなく、誰が食べてもおいしいものはおいしい、という人類共通の味覚部分があるのではないのだろうか。これは私にとって大きな発見だった。そうだとすると、これからも日本食は世界を席巻するだろう。

季節はずれですが、お花はいつ見てもいいですね。

これで終わってしまったら、気功師のブログらしくないので、もう少し書いておこう。人の中には良心というものがある。多分これも、人類共通の味覚と同じく、人なら誰でも共通に、多少の差はあれ生まれた時から与えられているものなのだろう。良心はスピリチュアリズムで、人は心に神を持っているという根拠でもある。これがあるために、人は嘘をつくと心が痛む。残念ながら嘘は人にはつけても、自分にはつけない。そして良心はそれを本当は許さない。(人のためにつく嘘もあるが、これは良心が納得する)結局、嘘をつくことで痛めつけるのは自分の心、ということになる。今、これに気づいて欲しい方が何人もいる。

人との縁(まだ結婚しない子供達へ)

スピリチュアリズムを学んでいるが、その中に「波長の法則」というのがある。人は自分の心のあり方が、出会う人や出来事を決めている、という法則。熱愛して結婚しても、「こんなはずではなかった」と別れていくことがある。親に勧められたお見合いで、(今時そういうのは珍しいけれど)始めはそんなに好きでもなかったのに、ずっと連れ添う夫婦もいる。出会った時の波長が低くて同じような波長の人と結婚してしまっても、お互いに霊格、人格を高めていければそれは素晴らしいと思う。

しかし、どちらかだけが高くなってしまったら、どうしてもお互い、居心地の悪さというものが出てくる。今だからこそ、自分の心の状態に気をつけるが、若い時はそんなことは思いもしなかった。本当の意味で添い遂げるのは、とても難しい。女性が「お金のため、生活のため」我慢して一緒にいることも多々ある。

うちの近くの夕焼け空。

だから、出会った時の自分の波長を慎重に分析することが必要だが、例えば結婚に関しては「何故自分は結婚したいのか?」という動機も内観しておいた方がいい。というのも自分の経験から、夫婦が同じ目標を持ち、大事なところで同じ考えを持つと力が倍増するが、そうでないと非常にやりにくくなるからだ。

でも、まあ、概して男女の結びつきは相手をしっかり見ないで、自分の幻想の中で作り上げた相手に勝手に惚れ込む、ことから始まるのではないかな、という夢のない意地悪ばあさん的なことを言って締めくくります。でも、真剣に真面目に考えた結婚なら、それだけのことはあるでしょう、という希望的な観測も付け加えて。

なんともはや

今、世界情勢、特に政治の世界は現実のものとは思えない。何が本当のことか良くわからない。私の感性からすると、政治家は強がるのは職業上仕方のないことかもしれないが、少なくとも並以上の品性が欲しい。でも品性どころか相手を出し抜いて、たたきのめすのが正義だ、といわんばかりだ。お願いだから小国、日本を巻き添えにしないでよと言いたい。自分から巻き添えになろうとしていると思えなくはないが。。。

山への憧れ、いつもあります。余裕ができたらまた登りたい。

クラスでも、時々世界情勢の話が出る。「ボタン一つで決着のつく時代。気がついたら、みんなであの世に移っていたというのなら、それはそれで楽かもしれない。一人だけとか生き残ると大変ね。」と言っている。可能性はあるかもしれないが、常にそれに怯えるのは時間=人生がもったいないと思う。それにしても随分短期間で世界は変わった。つい20年位前までは、今から考えると本当に大らかな時代だった。そして日本はなんて幸せな国だったのだろう、と今更にして思う。いや、紛争やテロが日常的になってしまった所から比べると、日本が今も幸せなことに変わりはない。しかし、どんどん幸せな基盤がもろくなっている様な気がする。

87歳の母まで終末を宣言され、立川と武蔵小金井の病院をほとんど毎日、振り子のようにいったり来たりしているので、この夏はあまり他のことを考える余裕がなく過ぎてしまったが、ニュースは災害と政争、虐待の話ばかりで、繊細な方は情報のない世界に行ってしまいたい、と思われたことだろう。国立の我が家にいると、虫がうるさい程鳴き、木の実はたわわになり、昔と何ら変わりがなく、自然の声をず~っと享受していたい誘惑にかられる。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのようにつぶやいてみる。「明日、考えよう」と。

師走、私走(年末じたばたの巻き)

、今年は「時間が早い。もう年末。」という言葉を色々な方から聞いた。私もそう思う。何故今年はこんなに早く過ぎてしまった、と感じるのか。仮説だけれど、リオオリンピックのせいではないか。オリンピックに気をとられているうちに、時間が早く過ぎてしまった、のではないか?

立川の夕暮れ

立川の夕暮れ

平均寿命を聞いてまだまだ、と安心していてはいけないと思う。健康寿命はもっと短い。(70代半ば)自分の現世での活動を考える上で、そこを一区切りにして、それからはまた生き方を変えて生き抜こうと思う。誤解されないように書いておくが、どんな健康状態でも世の中に役に立たない人間なんていない。経済の尺度で人を量ると、いずれ人工知能がもっとも効率的で「偉い」ものとなるだろう。でも各々の役割という点から見ると、どんな人でも皆かけがえのない魂を持つ人間だ。

統計的に健康寿命が出ているなら、それを目安に人生の計画をたてるのは悪いことではない。自分はどう生きるか、が大事なのだから。健康寿命、或いはその先の天国に行く日(行けるかな?)を意識すると、つまらない争いに気をとられるのは時間の無駄ということがわかる。自分がしたいこと、来世に向けてのスキルアップ、魂がしておきなさい、とささやくこと、みておきたい場所、芸術、読んでおきたい本、楽しんでおきたいこと、こういうことを考えると本当に時間が足りない。

毎年守れない「新年の誓い」は諦めて、「今日という日」を全力で生きることにします、という趣旨にした。これも新年の誓い?

 

時について

建物の玄関で見かけた花。花はどこにあってもそこに花を添える。

建物の玄関で見かけた花。花はどこにあってもそこに花を添える。

人生はよく「旅」に例えられる。電車に乗って外の風景を見ているうちに、時間と人生について考えた。何もしないでぼんやりしていても、時間は過ぎていく。時間は窓の外を過ぎ行く風景だ。変わっていく社会の状況かもしれない。人生はいつも電車に乗っているわけではないが、自分は座っていることしかできなくて、ただただ時間だけが過ぎていく。そんな時もあるだろう。そういう時はゆっくり座って風景を眺めるか、或いは居眠りするのもいいかもしれない。目的の駅に着いたら、電車を降りてまた元気に歩き出そう。或いはそのまま「死」という終着駅に着くかもしれない。それでもいいではないか?人生を生き抜いたのであれば。考え方を変えれば、何もしなくても電車という時が私達を運んでくれるのは「生き抜く」ということを目的とするならば、一つの救いだろう。もし電車の中で、色々なことを考えることができたら、それは後で大きな実りになるかもしれない。引きこもっている方達やフリーズしている方達もこんな風に見方を変えて、人生を乗り切ってほしい。

前に書いたかもしれないが、もう8月にクラスの忘年会の計画を立てて、クラスの予約を入れなければならなかった。予約を入れた途端、なんだか12月が急に現実的になり、思わず「え~、もう今年、終わっちゃうじゃない。早すぎる~。」と嘆いたら、「冨田さん、予約ですから。」と慰めてくれた。でも書類を見ていたその方は次の瞬間、「あっ、もう1月の予約が出来ますけれど、どうします?」と言ってきた。Time flies! (光陰矢の如し)