「不幸」にならないために

コロナ禍で、普段は西に東に飛び歩いている私を心配して、色々な方から「Stay Home」と言われ続けているうちに本当に外出する気がなくなり、理由を作って渋谷や新宿の病院に行った以外は家にいた。(大きめなガングリオンができて、念のため病院に行った。良性で放っておいて問題なし、ということでした。)

話が横道にそれたついでに書くと、西新宿の東京医科病院は、駅から歩いて30秒足らず、スタッフ、看護士さん、お医者さん感じよく、上のレストランは「宮内庁ご用達」で景色も良く、おいしく、少々お値段は高いけれど、(5千円以上のステーキ以外なら手の届く範囲)満足できる「旅」となった。(三回行って終わりになってしまったけれど)私の苦手な病院独特の臭いや圧迫感もなく、将来のお世話になるかもしれない一つの候補をみつけた気分だ。

もう、紫陽花の季節です。写真を撮りに外出します。

話を元に戻すと、人は色々なところで「幸せ」を感じることができる生物だ。それは時には「何かを信ずること」にも密接に関係がある。極端な話、殉教者が「これで天国に召されて、信念を貫いたことで神様に誉められる。」と思えば、その人は幸せなのかもしれない。ホームレスの方で、住む場所があってもそこを出て、以前の生活の戻る人がいるのは、住居を持たない自由が何物にも変えがたいのかもしれない。私がよくした登山にしても、「こんな素敵な日に山にこないのは勿体無い。」と思っていたが、「降りるために、しんどい思いをして上るのが、何が面白い。」と言われてびっくりした。「幸せ」の形は様々だ。

一方、不幸の形は源が似ている。物事を「不幸」と捉えた時から不幸は始まる。息子達に言っているのは、どんな状況でも「不貞腐れ」「自暴自棄」他人を妬み、嫉んで「僻む」ことさえしなければ、状況が変わり道は開けるよ、と言っている。上記の状態に陥ると、目が塞がりチャンスが来ても気がつかない。そして「不幸」のスパイラルに陥ってしまう。

スピリチュアリズム的に言うと、霊界や守護霊と自分の間に、この悪想念で厚い雲を作ってしまい、いわゆる天啓が届かない。

コロナ禍で私も見事にほぼ三ヶ月無収入、仕事も「三密」になりやすいので、これから仕事を続けられるかどうか考えてきた。ある意味方向転換には良い時期かもしれない、と思い始めた。ヘレン・ケラーも「やって失敗するよりも、チャレンジしない方が人生もったいない」というようなことを言っている。幸い、まだ気力、体力ありそうなので目一杯「命」を使いきることにした。仕事がしにくくなった、と負に考えるより余程いいと思う。

 

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