月別アーカイブ: 2014年4月

もったいない階段

忙しい毎日を過ごしているので、まとまった運動はなかなかできない。なので心がけていることがある。なるべくエスカレーターやエレベーターは使わず、階段を使うこと。これは運動、と足に言い聞かせ(?)片足ずつしっかり体重をかけて上がったり降りたりしている。降りる方が得意。

今は富士山も落ち着いているようです。

今は富士山も落ち着いているようです。

先日、私は神戸にいた。靴を三宮で買い、新神戸から新幹線に乗る予定だった。新幹線は11時46分発。外反母趾で合う靴を捜してもなかなかみつからないが、さすが神戸、全く痛くない靴がすぐみつかった。嬉しくなって途中でお昼のパンを買ったのがよくなかった。三宮で地下鉄のホームの時計を見ると11時31分。30分に出たばかりで次は38分。どう考えても地下鉄の神戸駅から新幹線のホームまで5分で行かなければ指定席はぱーになる。覚悟を決めて神戸の駅に着いた途端、新幹線のホームに向かって猛ダッシュした。エスカレーターは混んでいたが階段はすいていて、必然的に階段を駆け上がるはめに。ホームに着いた途端、新幹線も到着し、無事乗れることができた。動悸がしばらく収まらず、「心臓さん、ごめんなさい。」という感じだったが、日ごろの訓練の賜物と自己満足した。

ところが、次の日、体が疲れて思うように動けない。「年寄りの冷や水」という言葉が浮かんだ。そしてやっと、今までは切羽詰ってから動き、何とかなってきたのはいいけれど、これからは余裕を持って動くことを肝に銘じなければいけない、とまともな反省をしたのだった。

オセロゲームの行方ー小保方さんの場合

STAP細胞をめぐる論議がかしましい。存在するか、しないかで天と地に分かれる。門外漢なので、専門的なことにとやかくいうつもりはないが第三者的に感じたことを書いておこうと思う。

一つは今のマスコミの現状。この問題に関して全て同じ視点から見るので(或る週刊誌は無理に男女間の愛情問題として取り上げていたけれど、これは論外)小保方さんは白か黒になり、黒となるとオセロの様にパタパタと黒一色になっていく。 確かに責任を全て個人に帰し、「悪いことをした人」と決め付ければ関係した研究者、組織は安泰だろう。しかし例えば会社の組織で課長が取り返しのつかないミスをしたとして、部長や社長が外に向かって「悪いのはこの課長です。今から調べるのです。」というだろうか?見飽きたけれど責任者が組織の責任として並んで頭を下げるのがやはり普通ではないだろうか。

もう一つは早稲田理工の不思議。「博士論文を調べなおして、不正があった場合、学位の取り消しも検討する」ってそういう論文を指導して通したのは他ならぬ「あなた」ではありませんか?新聞に大学院に行く人が多くなりきちんとした指導ができなくなった、と書いてあったけれど、全くの本末転倒。小保方さんはコピペを良し、とする学問的環境で育った犠牲者なのかもしれない。

野に咲く花は大我の心

野に咲く花は大我の心

学問の府としての矜持はなくなってしまったのか。学問に必要なのは、ガリレオやブルーノのように、真実をみつめて戦った真摯な態度であることをもう一度思い出して、学校ごと出直してほしい。大事な母校なので尚更そう願う。

気功教室の方針

桜。目で見た本物の方がずっと感動的。

桜。目で見た本物の方がずっと感動的。

気功教室についての報告を久しぶりにします。昨年を一区切りとして、続けてトレーニングする方は昭島、国立合わせて8名。着実に気功ヒーリングができるようになってきました。国立で新たに履修する方は7名いますが、午前希望、午後希望と別れて、又2名は5月以降を希望しているので4月からの国立新クラスは午後から4名からのスタートになりそうです。(一人履修者が入ってくれます。)会社にセミナーとして入りたいという希望もあり、また基礎を履修して頂いた方に実践して頂く場を提供することに力を入れたいので、今回をもってしばらくは新しいクラスの立ち上げはしないことにします。

今年は履修した方の気功力アップのため、外で聖なる気に触れるパワースポット・ウォーキングを年二回春と秋に行う予定です。気功教室を始めたばかりでこれからの雛形を作る年なので、ゆっくりと、でも確実に進むつもりです。

とは言うものの、もう一年のquarter(1/4)は過ぎてしまいました。父母から孫まで4世代との関わり、色々な趣味やスピリチュアリズムの勉強、そしてライフワークとしての気功。この一年の家事目標である家に無用にある物の片づけ。これらを全てやろうとしてひっちゃかめっちゃかにならない様、優先順位をつけて毎日頑張り、一年の最後には「よくやった。気功師も順調に育ってきた」と有森さんのように自分を誉められるようにしたいです。

私事ですが。。。孫登場

私事ですが、3月25日(火)午前7時9分、初孫が生まれた。15日予定日だったけれど初めての子は延びると思っていたし、次男が予定日を過ぎること15日目で生まれてきたので、心配はしてなかったが、さすが一週間をすぎると気になり始め、ご先祖様や神様仏様に「困った時の神頼み」をしたのだった。

前日の明け方から陣痛が始まり、「順調にいって明日の明け方くらい」と言われたので朝病院に6時40分頃着いたら、30分もしないで元気な産声を聞かせてくれた。女の子です。

桃の季節に誕生

桃の季節に誕生

向こうのお母様がついてくださったので、処置が終わるまで待合室にいて7時半過ぎに部屋に入ったのだけれど、驚いたことに、生まれたばかりの赤ちゃんは目を開け私を見て微笑んだ!!!「えっ!」とびっくりしている間も新生児は部屋にいる人全員に目を合わせ、泣きもしないで笑いかけている。

顔立ちもえらくしっかりしている。少々のことでは驚かなくなった古強者(私)もただただ驚いて、圧倒されて帰ってきた。写メールを親戚に送り、親しい人にも見ていただき「何、このカメラ目線」とか「生まれて一週間というのならまだわかるけれど」という言葉を頂いた。

ところが、次の日に面会に行ったらなんと普通の新生児になっていて、顔の半分を口にして(要するに大口開けて)顔を真っ赤にして泣いている。抱くと「何でおっぱいくれないのかな」という感じで泣き止んで目を開け、ちらっとこちらを見る様子はなかなか大人びているけれど、昨日の様子とは全く違う。この日はママの回復力のほうに驚かされて、このママなら大丈夫と安心して帰ってきた。

以上のことを千葉にいる次男に報告したら、15日も遅れて散々心配させたことも忘れて、「ふんふん、やっぱり孫は誰でも可愛いんだな。」とクールに言った。フン!どうせバババカですよ。

今一番大事なこと

大分、ブログをつけるのが空いてしまったので、今日は少しまとめてつけようと思う。最近心配なのは、20代の男性の犯罪が目立つこと。生きる方向性を失った若者が多いような気がする。世間の価値観がお金と権力に一元化され、「他人に認められるかどうか」で自分の価値が決まってしまうのでは、そして皆が同じように考えているのであれば、少しでも不利な条件の環境では「浮かぶ瀬のない」人が多くなるのは当たり前だろう。

一瞬として同じではない空の芸術

一瞬として同じではない空の芸術

どう考えても教育のあり方を見直した方がいい。基本は、「どんな環境でも自分を誇れる」人間を育て、同時に「他人も自分と同じ様に尊重する」感性や考え方を身につけることだと思う。知識の詰め込みがどれ程役にたつのだろう。例えば日本史を大学の受験科目に選んだ人のどれ程が正確に、明治維新や日露戦争が始まった年号を正確に言えるだろうか?あっという間に忘れてしまう知識にしのぎを削って、人間として大事な視点が教育の実践で忘れられているように思われて仕方ない。

かく言う私も今だから言える。「流れ」の中にいる時は「泳ぎきる」ことしか考えることができなかった。或る人から私の中の「成果主義」を指摘されたが、それは受けてきた教育の賜物(?)だと感じる。日本を本当に大事にしたいのなら何より「自分という人間」「他人という人間」をしっかり尊重できる教育がまず必要だと心底思う。