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遅くなりましたが、北海道の皆様にお見舞い申し上げます。

北海道モエレ沼公園と、札幌市の会館では地方始めての気功クラスを開きました。それから毎年行こうと思っていたのに、両親の介護が段々大変になり、そのままになってしまいました。

9月6日は、たまたま弁護士と会い、「いつどこで地震があるかわからないので、老朽化した建物は危ない。」という話をしてきた所で、夕方帰ってきて地震を知り、驚いて少しは落ち着いたかなと思った夜、気功関係で知り合った三人の方にお電話しました。

幸い家も大丈夫で怪我もなく、二人の方は「今、電気が通った。うちはプロパンガスだったので、何とか夕食もとれた。」とおっしゃってました。もう一人の方とは通じず心配しましたが、次の朝通じて、その方も「さっき電気が来て、ほっとした。まだ水が出ない。」と言ってましたが、「あなたが、一番初めにお電話くれた。」と喜んでくださり、とりあえずお元気そうでした。

被害に遭われた方達には、心よりお見舞い申しあげます。平穏な日常が早く戻られますよう、お祈り申し上げます。亡くなられた方達には、お悔やみ申し上げます。

本当に日本列島は今、噴火、台風や地震による洪水、強風、崖崩れ、とどれがどこに来てもおかしくなく、それに原発の損傷が加わると、安全に住めるところを捜す方が難しくなるのでは、と心配してしまう。自分は関係ない、とか対岸の火事とかいってられない事態で、人の痛みを我が事と捉えなければいけない、良い学びともいえるだろう。

また住むところも人任せにしないで、自分で災害マップ、土地の歴史を調べ、本当に納得したうえで購入しなければいけない、ということをこのところの災害は教えてくれている。勿論人智に限界はあるが、被害に遭った方達が身をもって教えてくださったこととして生かしていきたい。

早く日常が戻りますように。私も日常を噛み締めます。

 

集中豪雨と猛暑

西日本豪雨の被害にあわれた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

遠くから、早い復旧と猛暑で倒れることのないように、お祈りするばかりです。人手が要るということで、体力が許せば駆けつけたいのですが、こちらも連日連夜の猛暑で、自分の身を保つのが精一杯です。

自然と仲良く生きるのは難しい時代になってしまったのか?

岡山県で生まれ、倉敷市にも親しんでまいりました。募金受付する所がはっきりせず、やっと市役所と郵便局から気持ちだけ募金しました。

もう日本中、どこで何があってもおかしくない時代になりました。全てを我が事と捉えて考えるしかないと思っています。

どうぞ、心折れることなく、一日、一日を生き抜いてください。

これからもしっかり胸に刻んで、いつも被害者の方に思いを馳せるようにします。

 

KIRAKU   冨田 貴子

 

AI(Artificial Intelligence=人工知能)!!!

もう何年か前に、アメリカに住む姉の家に行った時、二人で筒状の小さなコンピューターに話しかけて明日の天気を聞いていた。うわ~、ここまで来たか、と思った。どこまでがAIのなせる業か知らないけれど、「便利」を追求する一番の担い手であることには間違いない。便利=人の手間を省けること、と規定すると、これからの老齢化社会には必要なものもあるだろう。どうしても世の中は楽な方に流れるので、これからAIは幅をきかすことになるだろう。

ここでは、それをどこまでやっていいの?ということを考えたい。まず、AIの進出によってすぐに思いつくのは「人の労力」が要らなくなるということ。産業革命で機械化が進み労働者は仕事がなくなって怒ったが、今は人の頭脳に関係する分野でもそれが起こる。過去のデータの蓄積はお手のものだ。計算も速いし、統計的に推論もできる。ということは医療の分野でも十分機能する。もし、この病気にはこれ、といった療法がマニュアル化されているものがあれば、うちでコンピューターに自分の症状を打ち込めば、たちどころに直し方もわかるようになる。多分、セカンド・オピニオンを求めるまでもなく、あっという間に選択できる治療法が幾つか示され、それを自分で選択できるようになるだろう。

サプライズで、家族がAIと一緒になって帰ってきたお母さんに誕生祝を演出するコマーシャルをやっている。その時に思った。素晴らしい、誕生祝をされたお母さんもさぞハッピーだろう。でも、二度目はどうかな、と。多分もうサプライズではなくなる。マニュアル化されてしまったら予想できるから。手間がかからない分、容易になるけれど、人は実は自分のためにかけてくれた手間に、感謝とか喜びを感じるのではないだろうか?

アメリカの姉がよく、こちらではプレゼントは、手作りが何よりも喜ばれる、と言う。もてなしも手料理が最高だとか。プラグマティズムが主流のアメリカで面白いな、と感じたが、やはり心に関する分野はAIが人にはかなわない所だと思う。

医療でも、人によって体が皆違う、そこを昔のお医者さんは聴診器を使って、長年の経験と勘で診断を下した。経験を積んで、鋭い勘で治療できる人を名医と言った。また、本当の名医は、患者の心にも向き合った。医療が機械的になればなるほど、実はAIに近づくわけで英語でいうalternative(代替可能な)ものになっていってしまう。

せせらごぎとお花。いつ見てもほっとする。

人の心はマニュアル化できない。しかも始終変わる。そこに人間関係の面白さも難しさもある。そういう心にしなやかに寄り添っていくのは、やはり人の心しかないと思う。その分野にAIが入ってきて、人が使い方を謝ると、人の方が無機質化してAIに近づいていかないか、そして、奥ゆかしい日本文化にも多大な影響を与えることにならないか。これが杞憂であればいい、と切に願う。

(注)AIとは、人間の知的営みをコンピュータに行なわせるための技術のこと。またはそのプログラム。経験から学び、新たな入力に順応することで、人が行なうように柔軟にタスクを実行する。

父のことーこれで最後

よく考えたら、父が寝付いた時間は短かかった。二月までは一人で杖をつきながら歩いて、普通の食事をとっていた。四月に肛門の手術をしてからあやしくなり、5月の母の日に入院してから、とうとう施設に帰れなかった。

私が一番大変だったのは、病院に入院して退院できれば問題ないのだけれど、父のように状態が悪くても、もうその病院で有効な手立てがない場合、どこか他の病院か施設か自宅に移らなければいけないことだ。

医師や相談員の方と何度も何度も面接して、行き先を決める。容態が変わることもあるので、看護師さん達とも連絡をとっていかなければならない。施設の方もいつ帰ってくるのかと心配して下さっているので、報告しなければならない。今回父と同時に母も8月からおかしくなり入院になったので、一番暑かった7月、そして雨の多かった8月と父の転院、母の入退院に付き合った。

お花を色々な方から沢山頂ました。感謝です。

そして病院に入っても、転科と言って部屋が変わったりする。また、最期になると、個室になるので、また部屋が変わる。これは看護師さんが全部してくれるので、手間はかからなかったが、どうしても個室は差額ベッド代が高いので時期をよく考えなければならない。

後は、下着と靴下の交換のため、持って帰って洗濯して持っていく。退去した施設からの引越し。これがばかにならない。ソファー、車椅子、サイドボード、衣類、布団、他細々とした物。仕分けして業者を呼んだり、リサイクルショップに持って行ったり、施設でひきとってもらったり。

帰ってからも母の膨大な衣類の仕分け、整理。父の衣類も同じように。これらをしたのが全て夏の暑い時。よくもったな、と思ったけれど、昨日お嫁さんから衝撃的な発言が。。。「お母さん、夏が一番太っていましたね。」!!!

父よ、母よ、丈夫な体に生んでくれて有難う。そして気功師になっていて良かったです。それにしても、患者本人にも家族にも大変な負担がかかる「移動」なんとかならないかしら。。。

創造はやさしく、想像は難しい?

最近、題に書いたことをよく思う。「壁」を創造するのは、権力さえあれば可能かもしれない。でも、そのように差別された国や、罪なき人々のことを正しく想像することは難しい。多分人は、真実をみつめようと努力することより、自分の都合のいいように物事を創造することの方が容易なのだろう。

こんな近くから家から富士山を見える人達はなんて幸せなんだろう、と思う。

こんな近くから家から富士山を見える人達はなんて幸せなんだろう、と思う。

それは学校でよくやった「伝言ゲーム」でも明らかだ。たった10人程度の人数で、始めの人が言ったことが最後の人に正確に伝わらない。意図的でなくても、人のcommunicationはこの様に不確かなのだ。どこかに、自分の創造が入ってしまう。時々太極拳とかヨガで首や膝を痛めた肩がいらっしゃることがある。健康になるためのものなのに不思議に思っていたけれど、元々修行的なものが変化して健康体操的なものになったのだろう。本家は中国やインドなのだから、日本に入ってきた時点で大分変わってしまっている可能性がある。人に教えようという方は歴史や、本来の姿を知っておいた方がいい。これは気功を教えている自分も注意しなければいけないことである。

先日気功クラスで迂闊なことに、とても大事なことを伝えていなかったことに気がついた。私の気功は修験道者系で、「気」は、大峯山の麓の神社から頂いてきた。役小角が気功をしていたかどうか知らないが、少なくとも気功の基を実践していたと思う。それを引き継ぎながら、幾つかの手法を自分で創造した。クラスでも、これは習った気功法、これは私が創造した手法とはっきり分けて教えているが、これは自分で「創造」したというよりも上から教えて頂いたと感じている。

少し話しがそれてしまったが、自分が経験していないことを正しく想像することは、本当に難しい。震災に理不尽に被災された方達、例えば原発の恐ろしさをわかっていて、反対していた方達もいるだろう。やっぱりね、言わんこっちゃない、と思いながら亡くなった方もいらっしゃるだろう。福島からの転校生にイジメの記事を見る度に、人の想像力のなさに絶望的な気分になる。人はここまで、正しい想像力を働かすことができないということに、自戒をこめて、自覚しなければいけないと思う。

社会を覆う不安材料

トランプ氏がアメリカ大統領になった。あまりに正々堂々と事実誤認に基づいた意見を言うので(例えば車の関税について)呆気にとられているが、どうして日本の政府も「それは違う。」とすぐ言わないのか不思議でならない。昔の話で忍者が、雇っている殿様に命令されて「御意」と答えて言われた通り動いたが、思わずそれを連想してしまった。お金と権力さえあれば、何をしても許される時代なのだろうか。

ただ、日本の正規雇用の低さを見るにつけ、国内に工場を建てて雇用を拡大する、というのは素人目に見ても何故、日本も早くそのように動かなかったのかと思う。人件費が安いところ、安いところに工場を建て、挙句の果ては優秀な技術ももっていかれたのではないか?日本人の生活は段々貧しくなり、消費力が落ち、国力も弱くなり、と悪循環に落ちると日本人もプライドも持てなくなり、文化力も落ちてくる。

富士山の様にどんな時も凛としていたい。

富士山の様にどんな時も凛としていたい。

どんな時も是々非々で、経済や権力に振り回されないためには「精神」で立ち向かうしかないと思う。どんな精神かというと、「お天道様に見られてもはずかしくない」精神だ。日本人は古来から持っていたはずだ。きついことを書くと、犬のように尻尾を振っていたら、トランプ氏は犬扱いするだろう。あくまで日本は凛としていてほしい。

私は最近やっと人は、「自分だけのため」から「他人に愛を向ける」範囲を広げるために生まれてくる、ということを理解し始めた。個人も国も一緒で内向きになると、そこには本当の繁栄はやってこない。(この世で本当の繁栄はないかもしれないが)少なくともトランプ氏に大事にしようとしている「アメリカ人」の定義を聞いてみたい。不法移民ではないアメリカに住む人という定義ならば、自分に反対している人や立場の人の意見を尊重しないのは、大きな矛盾だと考える。

ショックなこと

今日、とんでもないニュースを知った。「フランスでトラック突入80人死亡」 何故フランスを狙うのだろう。子供も多数いたようで、そして犯人はたいてい射殺され、「テロ」の一言で不条理な殺人は片づけられてしまう。いつしか深く考えなければいけない問題も、次から次へと起きる殺戮と自然災害で上塗りされ、忘れられてしまう。テロ、虐待、自殺の共通する部分を一度徹底的に検証する必要があるのではないか?経済格差、満足と不満足、幸せと不幸せ、自己と他人、アイテムはいくらでもありそうだ。混沌としてきた世の中で自分の立ち位置をどう決めるか?どの様に自分を貫くか?これからこの様なことをしっかり考えていかないと、すぐ足元をすくわれそうな気がする。フランスの犠牲になった方達の死が無駄になりませんように。        合掌

ここから書くことはとても個人的で、他人様にはどうでもいいことなので先にお断りしておく。深刻なことを書いた後でずっこける様なことだけれど、どちらも私が感じたことだからしょうがない。京都の伏見稲荷に行った、と前のブログで書いた。そこの入り口付近で占い師の方がいた。いるな~と思いながら前を通っただけなのに目が合ってしまい、一緒に行った友達が思いがけず「いいわよ。どうぞ、どうぞ」と言うので気の弱い私はつい手相を見てもらうはめになった。今覚えているのは、「人のために仕事をしている」「今年は仕事運はいいだろう」そして一番気になったのは「珍しい!女性にしては色々な線がすごくはっきりしている。感情線以外は全て男だね。」と言われたことである。感情線が情が深いことを表していて、人間関係でも冷たく割り切ることができないそうだ。でも感情だけ女性で他は男らしいってどんな人生になるのだろう?と、とても不思議に思った。

窓ガラスの向こうの風景

窓ガラスの向こうの風景

さて、最近「色えんぴつセラピー」という本を手にいれ、色から何がわかるんだろうと好奇心の赴くままに付属のシートの九つ書いてある丸に色を塗った。その総合判定的な色の組み合わせの解説を見てびっくり。「こういう色を選ぶ人は男性に多い。この場所に男性は赤か黄色を塗る。」が~ん。ぴったり当てはまる。始めの所で色の塗り方から私は「束縛を嫌い、自由になんでもしたい。」と出て、その後も何か色々と当てはまって、これは信憑性が高いと感じた最後のところだったので、「はっ、私は感情面でも男になってしまったのか」とショックを覚えた。母親が姉の次に男の子を強烈に望んだせいか?(ちゃんと私を可愛がって育ててくれた)子供が男の子ばかりだったせいか?(そういえば家族の中で一番男らしい、と言われたことがある)それとも仕事を始めて社会に触れる機会が多くなったせいか?なんとなくあせる気持ちで最近少し手を抜いているお料理をしっかり作ったり、着物を着る機会をもう少し増やそう、などと考えたりした。果たして効果があるかな?

生活が大変

どこかに出かけようとすると、大体どこかの線で「人身事故」のお知らせが最近目につく。飛び込む方の理由の上位にくるのが、健康に関することと、経済問題。健康に関しては私も関与しているので、色々思うことがある。経済問題に関しては生活が苦しくなったり、「下流老人」という言葉がでてくるのは以下のことが原因になっていると思っている。都会に多いサラリーマンの場合。

二階から見た冬の木立。寝た状態でとりました。

二階から見た冬の木立。寝た状態でとりました。

一つは年金問題。日本人は老後は年金がでて仕事がなくても暮らせるはずだった。ところが年金受け取り年齢が引き上げられ、仕事がなくなると途端に収入が断たれることになってしまう。その上平均寿命がどんどん延びて、退職後30年近くの生活を支える資金が必要になった。なのに正規雇用が減り、若者さえ就業に苦戦している時代どうして中高年がまともな職業に就けるだろうか?

子供達が学生時代にはよく「社会を見なさい。どれだけ厳しいか感じなくては駄目。現実をみて行き先を決めなさい。」といってきた。それが親として正しかったかどうかわからないが、日本の行き先、暮らしに私はかなりの危機感を持ってきた。吸う空気だって何故かマスコミで話題にならないが、ネットではpm2.5の注意報が毎日わかる。日本気象協会も出している。

思うに、もう生活のどの分野でも「寄らば大樹」の時代はとっくに終わった。医療、経済、生活、健康について自分で情報を集め、自分で自分の身の処し方を決めていかなければならない。幸いなことに情報収集は事欠かない。選択肢もたくさんある。けれども選択肢が沢山あるということは、自分で決定しなければ何も進んでいかないということでもある。これって個人主義が発達した欧米に比べて日本人が苦手なような気がする。

ある意味日本人が成長するチャンスかもしれない。自立した上で、本来の日本人の良さを生かしてお互いに助け合う、という姿勢がこれからの日本、世界を生きるうえでとても必要、と感じたこの頃だった。

色々考えること(2)

前回、「自己犠牲」と書いたけれど、日本はアメリカの盾となることを選ぼうとしているとしか思えない。政治のことは良くわからない私だって、もし安保に関して阿部首相が提案したことに、少しでもアメリカの不利益になり日本の利益になることが含まれていたら、アメリカの政治家の誰かが異議を唱えるだろう。何故反対意見が出てこないで称えられたのだろうか?

自然の恩恵

自然の恩恵

敗戦国という汚名返上したくて、戦争という同じ土俵に乗ろうとしているとしたら、とても危険なことだろう。戦争に関してはするかしないかで、起こってしまったら細かい約束などあっという間に反故になって状況勝負になってしまう。今更、先の戦争でソ連が約束を破って攻めてきた、と言ったところで何も始まらない。戦争は全てを狂気に陥れる。それとも余りに私達が戦場となった沖縄の悲劇に反省も悲しみも持たないので、今度は日本全体を沖縄のようにする、「カルマの法則」が働くのだろうか?

私は日本が「参戦できる国」であるより「かえがえのない文化を持った尊敬される国」であってほしい。そうしたことによって何か起きるなら、受け入れるしかないと思っている。日本で起こっていることの重大さに比べ、自分の小ささと無力さに溜息をつくこの頃である。

色々考えること(1)

新幹線で事件を起こした人は「年金で生活できない」と言っていたらしい。ある時期までは日本は「年金で生活できる」国だった。ところがそれが不可能になった。65歳に引き上げられた時、これは大変なことになったと思ったがたいして騒ぎもなく決まってしまった。結局殺人事件になり、弁護するつもりは毛頭ないけれど、経済的に追い詰められたということは想像できる。

う~ん、疲れたな。

う~ん、疲れたな。

手が足りず子育てが大変な親と子供、一日一食しか食べることができない若者、まだ働けるけれど雇ってもらえない人達、このような人達がどんどん増えているのが現実だ。何かみんながきちんと役割を持って、安心して生きていける組織はできないだろうか?格差社会というからには使い切れないお金を持っている人がいるはずで是非考えてほしい。どこかで判断を間違えてもやり直しができる社会、生き直すチャンスがある社会、そういう社会でこそ人は人間らしく生きることができる。

社会のやさしさの指針は人の痛みをどこまで自分のこととして捉えられるか、自分が誰かの「役にたつ」ことにどれだけ多くの人が喜びを感じられるかだと思う。自己犠牲を言っているのではない。全てはしっかりした自分あってのことだ。(2へ続く)