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ドリアン先生の講義(続き)

この前の続きで「なんでも大事にすればいいというものではないのだ」に関する考察を少し深めてみた。患い(わずらい・心を取り乱すもの)を心に入れないで門前払いするのは心の平静を保つには確かに大切なことだ。でも人間はどうしても感情があるので、取り入れて心にマイナスのものを作ってしまう。

桂林の様なハロン湾の風景

桂林の様なハロン湾の風景

それを相手のせいにしないで、起爆剤にして努力することができるかもしれない。マイナスをプラスに変える方法だ。又はそういう自分をみつめて己を知り、苦しんだ後乗り越え、一段と成長できるかもしれない。分析した上で心から追い出すことができたなら、それが一番いいような気がする。

もし、現実をよく見ないで自分の弱さから都合の悪いことを心から追い出してしまったら、「それは違う」と老子は嘆くだろう。情報過多でその情報も一人一人が吟味しなければいけない時代。私たちは「患い」にしっかり対処していかなければ生き残れないだろう。老子の言葉を今に生かす工夫を考えてみた。

ドリアン助川先生の哲学講義

お寺に並んだ亀、亀、亀

お寺に並んだ亀、亀、亀

5日に『バカボンのパパと読む「老子」』を著者のドリアン助川と読む会なのだ!というとても長い名前の講座を受けた。第一印象は遠い世界だと思っていた老子の世界が、意外とわかりやすく身近なものだ、ということ。(これは多分、ドリアン助川先生の力量による)二つ目に思ったことは言い方こそ違うが、今まで世に出た聖人の言ってきたことは重なる部分が多分にあるということ。次にこんなに現代に通用する、というか今こそ必要な生きるヒントをちりばめていたんだ、という驚き。

私が数年前から学んでいる精神学も歴史があり、現代の問題、悩みに直結すヒントを与えてくれるものだが二千年前以上の書からも生きるヒントをもらえるということは、人間は大して変わっていないのだな、と思う。

全ての章が面白かったが特に第十三章「なんでも大事にすればいいというものではないのだ」には、はっとした。それは寵愛と屈辱を例にとり、「配下にある者は、寵愛を得てひどくのぼせる。それを失った時には取り乱す。」のはそういう患いを自分の中に入れて貴ぶからだという。私も前から誰かを憎むようなことがあった時、いつまでも恨みに思うのは時間の無駄で二重に損していると感じだけれど、老子は始めからそういう感情は門前払いして心に入れず患わされるな、と言う。それが「自分の身を大事にするということで、それができる人に天下を預けるべきである。」とまで言う。しっかり納得できた。これが心の平安をつくり、ひいては世界平和につながるのではないだろうか。

ドリアン助川先生の面目躍如の講義だった。又聞きたい。

ドリアン助川先生の詩の講義

久し振りにドリアン助川先生の詩の講義があった。宮沢賢治、高村光太郎、草野心平の代表的な詩の朗読と、その三人が苦しい時代の中でどう関わっていたかをとてもわかりやすく伝えて下さった。

今回は草野心平の話が深く心に残った。今まで「蛙」の一連の詩を読んでもあまりぴんとこなかったが、人となりの理解を深めたことによって、ある滑稽さの裏にある哀しみのようなものが伝わってきた。

華やかな花々。三人の芸術家に捧げたい。

華やかな花々。三人の芸術家に捧げたい。

一番感動したのは、ドリアン先生が三人に対して「創作とはなんですか?」と質問してこう答えるだろう、という所だった。三人の創作に対しての姿勢を良く表していたし、才能あふれる芸術家達であったにも関わらず、不遇であった三人への先生のやさしいオマージュにもなっていた。俄然、詩集を読み直したくなった。また、今日の講義を詳しく本にもして頂きたい。