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祖母の思い出

私の父方の祖母は豊橋で、一昔前なら、みんな知っている運道具店を経営していた。往時50人くらいの人を雇っていた、というからかなりのやり手だったようだ。私が知っている頃は5,6人だった。なんでも店員さんの中で、独立したい人をどんどん独立させたようだった。いつもお店のことで忙しそうで、最後まで店主として頑張っていた。

はっきり言って、医者の娘である母とはあまり反りが合わなかったようで、「あの人(母のこと)と話すと疲れる。」と言っていたようだ。ところが母の母とは同じ豊橋のせいか仲がよく、一緒に京都旅行などに行っていた。でもせいぜい二泊三日、常にお店のことが気になっていた。

海の不思議。今日は久しぶりに暑かった。

その祖母が私に「私の若い頃の夢は和裁の先生。家から先生のところまで片道、一時間以上もあってね、それでも山道を、思い荷物抱えて一生懸命通ったのに、私は何の因果で、こんな商売やっているんだろうね。」と答えが出ない問いをよくしていた。おばあちゃま、人生なんてみんな、そんなもんだよ、でも成功しただけ良かったじゃない。いまだに豊橋の私世代やそれ以上の方は覚えていて、なつかしそうに〇〇〇でグローブ買ってもらったよ、嬉しかったな~、なんて言って下さる。お店を開こうと思った時、地域に必要なもの、足りないものを選んだその眼力、洞察力は素晴らしい。

祖母の亡き後、叔母が継いだが、時代の趨勢に勝てず閉じて貸し店舗にした。現在私の管理となったが、70年近くたった木造の建物は「東海大地震」が言われている今危なく、もし何かあれば保険もかけていないその建物に対して、何も責任が負えない。中でだれか亡くなれば、それも全部こちらの責任になる。それを知った時、ぞっとした。

だから、取り壊しを決定した。後、20年若ければそこで何かできたかもしれないが、もはやそんな余裕も気力もない。豊橋には私自身住んだこともないので、余計難しい。息子達も自分の道を歩み始めて忙しい。

お墓参りして、そのことを報告し、事後処理をきちんとすること、資産を社会のために使うことを誓った。最後まで律儀に働き者だったおばあちゃま、思い出の建物はおばあちゃまが可愛がった近所の男の子(今は勿論大人)に壊してもらいます。許してね。

あるミィーディアムとの出会い(3)

この話は今日で終わりにするが、もう一つ叔父(母の一番下の弟)のことを書いておきたい。ゲイルさんの公演会で、母に関しての情報を沢山頂いた話は(1)で書いたが、その中で、「兄弟の方も一緒にいます。どなたかわかりますか?」という質問があぅた。

勿論、母よりたった八日前に亡くなった叔父に決まっていた。父は人に対して好き嫌いのあった人だったが、この叔父とは肌があったのか、旅行にも一緒に行ったりした。叔父を真ん中に父と母が写っている写真があり、ああ、この順に逝ってしまったね、とお葬式の時にも話したりした。兄弟と言ったので、叔父しか思い浮かばなかったけれど、母に遅れることきっかり二週間で逝った伯母もいたかもしれない。

叔父は外科医をしていて手術がうまかった。私はしつこい足の魚の目を切ってもらったことがあったが、後全く痛まず又、再び魚の目ができることもなかった。それを叔父に言うと、「当たり前だ。切り方が上手いからだ。」と自慢していた。次男が階段から落ちて頭を切った時もさっさと縫ってくれた。母はこの叔父に料理を作ることが楽しみで、家族に作る時より喜々として作った。(ようにみえた。僻みかな。)

前にも書いたが、姉が小さい時、来る人来る人に母はあろう事か「私はこの子(赤ちゃんの私)のほうが可愛いいんです。主人はM(姉)のほうが可愛いんです。」と言い、それは今70近くになる姉の心の、ずっと傷になっていたことを母が亡くなる直前に知った。だからどうしても母が生きているうちに、母と姉を二人きりにして胸の内を吐露してもらいたかった。年内はアメリカから姉は来られなかったので、どうしても年内は生きていて欲しかった。

父と大体同じ経過を辿った母は、12月25日にとうとう点滴が体にはいらなくなった。父はそれから三日して亡くなった。死亡推定日は12月28日と思い、あせって先生に中心静脈に点滴を入れる手術をお願いして、26日に手術。一時持ち直したようにみえた。1月二日に姉が到着。六日の母が亡くなる日まで、二人にする時間もあり、姉は母に色々話すことができた。本当にほっとした。

夜桜。迫力満点でしたがもう今は葉桜です。

ところが、母が亡くなるかもしれないと思った日に叔父が亡くなった。寝付いてはいたけれど、その頃は比較的元気、ということだったのに、28日の夜中に突然逝ってしまった。1月28日は叔母の誕生日なので覚えていてもらいやすい、ということもあったかもしれない。面白いことに叔父の忌明けである49日目が叔父の誕生日でもあった。

でもやっぱり私は、母が本来逝く日であった28日に「いいよ。俺が代わりに逝ってやるよ。Mにちゃんと会え。どうせ大して違いない。」と代わりに逝ってくれた気がしてならない。そういうやさしい所があった。母は母で、6日は大好きだった両親が亡くなった月命日なので満足だったと思う。亡くなる直前二度、はっきり目を開いて上の方を見て「ああっ!」と大きく叫んだ。苦しい感じではなく、何かびっくりしているようだった。姉と私は「お迎えの人が来たね。」と言った。

どうやら母は向こうで色々な人に囲まれて、賑やかに楽しく暮らしているらしい。長い反省が始まるということなので、そうそう騒いでばかりはいられないだろうが、暫くは近くで亡くなった父、叔父、伯母と一緒じゃないかな。私は寒暖差のせいで最近どうにも眠くて、昼間、ちょこちょこ寝ているが、寝ている間は向こうの世界に行くらしいので、しょっちゅう会って色々叱られたり、アドヴァイス受けたりしているのかもしれない。最近、睡眠時間が多く、そのせいで多くの方が心配して下さった、「逝かれて、がっくり症候群」が全くないのはあり難いことです。向こうで両親は生きている、と実感したからかもしれない。

 

 

 

 

 

アメリカからのお客様(2)

豊橋二日目の午後は、名古屋の徳川美術館に連れて行った。名古屋から周遊バスがあったけれど、金山から乗り換えて大曽根駅で降りた方が一時間近く早く着く計算になった。裏の日本的な小道を通って表に出ると、そこには満開の桜が!!!今日、豊橋の親戚のKさんが、「早咲きの河津桜」と教えてくださった。ああ、今回は桜には早すぎた、と思っていたので見せることができて、とても嬉しかった。何本も華麗に咲いていた。

去年撮った写真。雲の形に魅力を感じました。

特別展で享保、寛永のお雛様や有職雛のお雛様、みたことがないようなユニークなお雛様が並び、美術の先生をしているお嫁さんが、すごく興味を持ってくれたので、「お雛様」の歌から、これがぼんぼり、雌雛、雄雛、三人官女、五人囃子、ガードマン(?)と説明していったら、一番下の男の人達は何をしているのか?と聞かれ少し返事に困ってしまった。お盆を持っている人形は食べ物をserveする人、他の人はcleaninng(掃除)する人達かも、といっておいた。

彼女は「どんぐりころころ」を日本語で上手に歌ってくれた。日本の童謡が子供にいいと思ったみたいで、まだ他の歌も覚えたいようだ。こんなお母さんなら、Mちゃんもいい子に育つだろう。日本を気に入ってくれて結婚してから三度目の来日だけれど、かえって外国の方から日本のいい所に気づかされる。こういう文化的交流を色々なところで積み重ねていくのが、結局、平和への近道なのだろう。まさかアメリカ人の親戚を持つとは夢にも思わなかったが、もう世界の垣根が実際には大分取り払われているということだろう。今回はお嫁さんと沢山お話できて、距離が縮まるという収穫があった。

 

感謝!!!

両親の最晩年、力になって下さったのは、両親の一番近くいた人達でした。父の場合、昨年の二月まで練馬の家で一人で暮らしたので、ケアマネさん、ヘルパーさん、介護施設のトップの方、リハビリで知り合った面倒見のいい男性、お弁当を毎日届けながら様子を見てくださったワタミの方。実家まではここから車でも電車でも一時間半、買い物したり、環八が混んでいると二時間かかるので、何度家に電話かけても出ない時や、どうも調子の悪そうな時はお願いして、よく見に行って頂きました。

母は国立で三年以上お世話になった介護施設、損保ラヴィーレで、多分近年になく幸せな生活を送ったと思います。三度三度のおいしい食事、お気に入りの男性介護士、母を慕ってくれた女性の介護士、しっかりと組織を管理し、母を見守り、いつも病院に付き添って励ましてくれて、本当に頼りにさせて頂いた女性の施設長。そして二人共、最後は武蔵小金井の桜町病院で温かい先生と看護士さん達にお世話していただいて安らかに旅立ちました。

勿論、親戚や友達もとても心配してくれて、理事長や病院長の身でありながら豊橋からお見舞いに来てくれた従姉妹や従兄弟、二人入院して(最初は別の病院だったので)あっちとこっちで困っていたら、「今日は私が伯母ちゃまの所に行くから」と良く申し出てくれて助けてくれた従姉妹、何を優先しても子供も連れて見舞いに来てくれたお嫁さん、母の延命を一生懸命祈ってくれた叔母、わざわざクラスが終わってからお見舞いしてくれた友達、数え上げれば感謝する方達はきりがありません。大勢のお見舞いの方達を見て、こんなに大切に思ってくれているんだと本当に嬉しくなりました。

見慣れた立川の街。「いつの日かこの世に別れるその日、遥かに見下ろす立川の赤い橋」

今回特に感じたのは、血が繫がっていなくて家族でも親戚でもなく、あくまで仕事の中でのお付き合いであるはずなのですが、毎日、施設ではすぐ側にいてやさしくして下さったり、病院ではもう何も病人にすることがなくなっても、温かい眼差しを送ってくださることが、どんなに病人や家族にとって力になり励まされ癒されるか、ということでした。

正直、冷たいな感じ悪いな、と思う他の病院の階もありました。そんな時は、家にいてもいつも心配でした。二人の最晩年、周りにいた方達が心ある方達で本当に幸せでした。母の四十九日も済ませ、思い返せば私だけではどうにもならなかった、と思うことばかりです。

この場を借りて、心からお礼申し上げます。明日、三月からは気持ち新たに、また、気功師とピアノ、スピリチュアリズムの勉強に全力を注いでいきます。

 

不思議なカレーの話

まだ父母が元気な頃、一緒に千葉の御宿に旅行に行ったことがあった。そこのホテルで買ったレトルトカレーが「おいしかった。」と後で母から電話があった。現在、実家にだれもいなくなり荷物の整理をした時、取り寄せたのかそのカレーがいちダースあり、父も食べるかも、とうちに持ってきた。長男夫婦や他の方に分けながら、うちでも食べてみた。本当においしい!!!従姉妹にはあげられなかったし、うちにももっと欲しいなと思い注文することにした。

発売元に電話すると、もう個人には売ることはしないで「ギフト・カタログ」を手に入れて、そこからの注文なら、と言う。御宿のホテルにも電話してみたが、同じ答えだった。あまり物事に執着しないタイプだが、何故かとても欲しくなって次の日、立川に行った時にデパートのギフト・カタログを片っ端から見てみたけれど、みつからない。がっかりして、しょうがない、諦めようと思った。

私の姓は富士山に関係があることをこの前の法事で始めて知った。

私の姓は富士山に関係があることをこの前の法事で始めて知った。

その次の日、ピンポーンと宅配がきた。見るとこのブログでも書いたA先生の49日の法要の品だった。まあ、お通夜もお葬式の時も振る舞いが豪華で、食べきれないくらい頂いたのに、ご丁寧に申し訳ないと思いながら、包みを開けると、ギフトカタログだった。えっ、まさかとカレーをさがしたけれど、見つからない。そうよね、いくら何でもタイミングよすぎるわ、とカタログを閉じたら表紙に見覚えのあるカレーが目に入った。そこでもう一度よく見直したら、あった!捜し求めた(といっても二日だけだけれど)カレー。。。と、豪快なA先生の笑い顔が脳裏に浮かんだ。あっ、先生だ、先生からの贈り物だと確信し、笑いがとまらなかった。

従姉妹にも同じギフトカタログがいき、私が推薦したカレーを頼んだ、とまた二人で笑いあった。積極的で陽気で親切でお茶目な先生らしい、と嬉しく思い、向こうの世界におられる先生に感謝を伝えた。

どんな時でも元気になる

「どんな時でも元気になる」という題にしたのは、近年になく五月は相当私にとって厳しかったからだ。親しかった方お二人があっという間に亡くなられた。一人は親戚同然のお付き合いをしていた、仙川にある病院の院長までなさった女医さん。もう一人の方はクラスにも顔を出してくれていた方。家族の方とも顔見知りだった。お二人とも癌の再発が原因だった。他にも叔父危篤の知らせが入り豊橋に走ったり、父が「母の日」の朝、施設から救急車で病院に運ばれて、まだ退院できない長い入院生活が始まった。他にも湿疹がなかなか治らなくて困っている方、介護で疲労困憊になりダウンした方、それから熱中症で意識不明までいった家族とか、なんだか病気のオンパレードだった。お葬式に行ったり弔問したり、遠隔診断したりヒーリングをうちでしている間に五月が終わってしまった。

こう書くと何だか不幸ばかり起こっているようだけれど、一つ一つを気持ちをこめて接したのでかえって疲労は残らなかった。あの世に送った方にも女医さんには「向こうでも是非スピリチュアル・ドクターとして活躍して下さい。」と話しかけ、もう一人のSさんにも「お仕事も子育ても最後まで良く頑張られましたね。ゆっくり休んでまたご家族見守ってね。」と話しかけた。魂は永遠と信じてなければ、かなり落ち込んだと思う。本当は最後まで気功師として関わりたかったけれど、女医さんは去年の法事にお会いして今年になってもお仕事なさっていたし、Sさんは最後はご家族と過ごされていたので邪魔してはいけないと思って連絡も遠慮した。

一緒に見た桜、すごく綺麗だったね。あなたのこと、忘れないよ。

一緒に見た桜、すごく綺麗だったね。あなたのこと、忘れないよ。

でも不思議なことに、Sさんが入院した同じ病院の外科の同じ階に父が一度目の入院をし、もう退院したあとだったけれど、行く度に家で療養なさっているSさんを思った。驚いたのは父が二度目の入院を泌尿器科でしたのに、又外科の同じ階に入院し、一週間そこにいた。そして他の階に20日に移ったのだが、彼女は19日に亡くなられたと連絡を頂いた。私は彼女が入院している時は度々お見舞いしたので、余計行く度にああ、父がいたこの部屋に彼女がいたな、とかあの頃は本当に桜が綺麗だったなと思いをはせていた。

一緒に弔問に行った方は、なんと19日にSさんを友達と見かけたと言った。ああ、あんなにお元気になられたんだと一瞬思ったという。

お仕事が生きがいで80歳すぎても現役でいらした、どちらかと言うと男性っぽくて、謙虚で可愛いらしいところもあったA先生、強い心を持ちながら、優しさとユーモアが魅力だったSさん、50代半ばでまだ中学生のお子さんのことも心残りでしょうけれど、この世の苦労は忘れて、(誰でも反省の日々を過ごすと聞いてますが)あちらの世界でも輝いてご活躍ください。いずれ私も行きます。精一杯のことをして、お二人に拍手で迎えられるように頑張って生き抜きます。                                                                            合掌

 

 

 

もう一つの法事

父方の祖母は酉年で、前回書いた母方の祖母も酉年だった。一回り父方の祖母の方が年上だが。。。母方の祖母が亡くなった次の年の2月に父方の祖母も亡くなった。今時、33回忌をするのは珍しいと思うが、祖母が亡くなった時代は普通だった。少なくとも豊橋では。私が思うに、自分は33回忌まではしてくれると思って亡くなったのに、時代の流れとかでしません、というのも、ひょっとして納得できないのではないかと思い、できるうちにと父方の祖母の法事も1月28日に執り行って頂いた。

母のしてきたことをするのだが、何しろ始めてなので右往左往した。親戚の方からも大分助けていただいた。途中、写真がいるとわかり、わざわざ豊橋のうちまで捜しに行った。写真は何となくぼけていて、周りの紙も染みがあり、そのまま使えそうになかったので取りあえず100円ショツプで写真立てを買い差し替えて、うちに古い写真立てを持ってきた。捨てるつもりだったが、なかなかしっかりしていて、それに何となく祖母の魂が入っているような気がしてガラスは磨き、台紙も差し替えると思いがけなく立派になった。

頂いた花をいじってみました。祖母に捧げます。

頂いた花をいじってみました。祖母に捧げます。

当日そこに祖母の写真を入れてもらい、祭壇に置いた。お焼香の時ふと見ると、あれれ、ぼけていたはずの写真が立体的に見えて、しかも随分と若返っている。会社を切り盛りしていた祖母らしく、きりりとした面影で、すごく美人。用意の忙しさで目もおかしくなったか、と後で他の方に聞いてみると、「本当にいい写真、若く写っていた。毅然としていておばあちゃまらしい。」と言って下さる。???昔の技術で近くから見るとぼけていても、遠くから見ると立体的に見えるようになっているのかしら、とか、ひょっとして法事を行なった会館で写真を預かっている間、細工をしてくれたのかしら、今の技術はすごいから、とか思ったけれど、祖母の昔の面影を知るはずもなく、そんなことまで無断でするわけがない。

やっぱり祖母は喜んでくれたのだろう、と思う。当分これでうちの法要も最後と思い、一生懸命やった。その前の週は豊橋でも雪が降って、お墓に行くのは無理かなと心配したのだけれど、当日は晴天でそんなに寒くもなかったので、お墓できちんと法要できた。それに私より年上の方が何人もいらしたので、風邪やインフルエンザで欠席もありうると思っていたのだけれど、全員揃って出席して下さった。おばあちゃまやご先祖様が応援してくれたのだろう。

こういうことはどんどん廃れていきそうだけれど、やらないからいけない、ということではなくて、亡くなった方達や親戚やご縁のある人達と旧交を温めるという機会、という意味では、すごく良く出来た日本の習慣だと思う。二つの法事、参加して、やって良かった。私の時も23回忌位まではお願いしておきたい。その後は願わくば、高級霊となって皆様をお見守りしたいです。

昨年(度)一番驚いたこと

この話は早い段階で書こうと思っていたのだけれど、遅くなってしまったので昨年ではなくて昨年度とした。(これなら三月に書いてもそう時期遅れではないでしょう)去年の秋にMさんから電話がかかってきて、ひどく首を傷めたけれど、どうしても外出しなければいけない用事があるので遠隔ヒーリングをして欲しいという。誰にでもするわけではないけれど始めてのことだったので引き受けることにした。

三日程かかったけれど、「外出できる程度には良くなった。」と喜んで下さり、「ついでといってはなんだけど、施設にいる義母が調子悪くて苦しんでいるので、お願いできない?」と言ってきた。何と説明したらいいかわからないんだけれど、これは無理と感じ「大変そうで申し訳ないんだけれど、これは遠隔ヒーリングでも難しいと思う」と伝えた。

12月に入ってMさんのお義母様のお名前で贈り物を頂いた。冊子から自分が好きな物を選ぶようになっているもので、注文の期限があり、いつその冊子をお店から出したかがわかる日付が大きく書いてあった。でもヒーリングをお断りした方から何故贈り物が?と不思議に思い御礼の電話が少し遅くなってしまった。以下はその時の会話。

近隣の風景(もう一度菜の花)

近隣の風景(もう一度菜の花)

「贈り物有難う。早くお電話をと思いながら、何故お義母様からと思って人違いかな、と思ったり。でも住所はあなただから、やっと今日お電話したの。」「えっ?そんなことないわよ。私が送ったのよ。」「でも差出人は、お義母様よ。遠隔頼まれた人。」「うそ~、母の名前で出さなきゃいけない所を自分の名前を書いてしまったことはあるけれど、自分の名前を書かなくてはいけないところに母の名前を書くなんて。。。」「変ね~。どうしたのかしら」「ああ、そうそう母はあの時は苦しんでいたけれど、その後痛みもなくなって、実は穏やかにこの前亡くなったの。」「えっ、そうなの?いつ?」「12月4日」ここで私は衝撃を受けた。「本当?プレゼントが出された日は12月3日になってるわよ!!!」

後日彼女に証拠の「送り主」が印刷されている送り状をみせて納得して頂いた。二人で、義理堅いお義母様が彼女に乗り移ってあの世に行く直前に送らせたのでしょう、という話になった。遠隔はお断りしたけれど、一応上の方に伝えたので何らかの配慮があったのか、それとも可愛いお嫁さんが世話になったと思われたのか、どちらにしても心に残る出来事だった。

 

或る女性

浅草に出かけた時、或る女性と偶然知り合い、メルアド交換までして別れた。少し私よりお年かな、と思ったけれど話していて何のギャップも感じることなく最後まで楽しかった。「図書館で働いてますの。」と言うので「司書ですか?」と聞くと「いえ、清掃です。体動かすのは楽しいですよ。交通事故でもう立てないかも、と思っていたので余計楽しいです。」とおっしゃった。

お見事!と感心した。ご自分のお仕事に誇りを持ち堂々としている。最近気がついたのだけれど、いわゆる「勝ち組」「負け組」は自分で決めることであって人から決められるものではない。例えば会社員がリストラされても、それをチャンスに自分の道を歩み始めれば「勝ち組」、残ることができて出世しても競争相手に負けた、結局思うように出世できなかったと思えば「負け組」。その後の人生というか「今」を輝かせることが出来るかどうかのとても大事な分かれ道だと思う。

すすきの綺麗な季節です。

すすきの綺麗な季節です。

別れ際に年を聞かれたので「もう年です。還暦近いです。」と言うとその方は、「お若いのね。私は76です。」と言われたのでびっくり。白髪だったけれどお顔の色艶、話し方で10歳は若い感じがした。一昔前まで私は「80が人間の天命」と聞いていたので、何となく人生設計をそれに合わせて「今」をしっかり生きようと思っていた。なのに日本人の女性の寿命が勝手にどんどん延びて、いまや90、100歳近い人まで元気な方が多い。「お若い」と言われればそうかもしれないけれど、後10年ほどで「楽隠居」かな、と楽しみにしていた身には「まだまだ」と言われた様な気がして、ちょっとしんどい心境なのでした。

花開く才能

今日の気功のクラスでは、瞑想の時間の前に朗読を始めて三年経ったHさんに、短めの朗読を二つして頂いた。青森出身なので津軽弁はperfectで、自分で音曲を入れた童話と民話を、東北の語り部のように上手く読んでくださり一同聞きほれた。自分が興味あることから少し歩を進めると、意外な才能が現れるいい見本になっている。方言を気にする方もいるが、Hさんの場合はそれを朗読の有効な武器にした。

厳しい世の中、力を合わせて乗り切ってほしい。

厳しい世の中、力を合わせて乗り切ってほしい。

クラスの方でピアノや声楽、お料理、芸術に夫々得意な分野があり、そこからひょっこり顔を出す才能を見つけると、嬉しくなる。もう、世に認められるとか賞をとるとかを追い求める年ではないが、この年になるまで色々見聞きしているので、いい、と思ったものはいいのだと確信している。「魂は永遠で努力して得たものは蓄積されていく」という説を信じているので、いつか才能が世に認められる日もくるだろう。

、ちょっと関心を持ったものをこつこつと掘り下げれば、何かはつかむことができるのだな、と思う。日常にヒントはいっぱい転がっている。お世辞ではなく教室に来て下さっている方は皆キラリと光るものを持っている。それは技能だけではなく、心のあり方だったりする。波長の法則(類は友を呼ぶ)は成程本当だな、と結局自画自賛して満足する日々である。