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時間の不思議

このところ、皆さんと意見が一致しているのは、「時間の早さ」だ。毎日一生懸命生活しているのに、過ぎ去った時間はとても早い。もう今年は半分終わってしまった。ひょっとして、中身が薄いのかしら?特に予定を入れると、もうそこまで終わった気になるのは不思議だ。

六月のうちに、忘年会の予定を考えた。日曜日は第三なので16日、金曜日も初めの方に設定するつもりだ。そして、1月6日も母の一周忌と決めた途端、完全に今年は終わった気になった。鬼が笑っても笑わなくてもそのような気になって、何だか呆然とした。こんな風に人生って、あっという間に過ぎていくんだろうな。

暑い日に水は救世主

立派なお城を見るたびに、昔の技術の凄さと、それにかけた情熱を思う。しかし、「生々流転」や、鴨長明の『方丈記』の「ゆく「川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という様な言葉を思い浮かべる。いや、もっとふさわしいのは芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」だろうか?戦国時代に生きた人は、堅固なお城を作るのが至上命令で必要なことだった。日本の狭い土地を命をかけて取り合った。それがその時代の「正義」だった。今はお城は観光価値として大事にされている。元の水ではないのだ。

これから不動産に関する両親の「宿題」に取り組まなければいけないが、少なくとも〇〇家をかけての争いという馬鹿げたことにならないように、お城を時々見て方針を誤らないようにしようと思う。それが、お城が時間をかけて教えてくれた大切なことの一つだろうから。

 

「暇」について

「暇」の定義を自分が何かやりたい情熱が失せて、かつ、人から何も求められていない状態、と定義しよう。不思議なもので、忙しい時より何かしら将来や色々なことが不安になる。筒井氏も本に「人は活動的でなくなると日常の瑣末な出来事が気になる。」と書いているので、どうも「暇」は良くない。これが「余暇」というと、ぐっとプラスの響きになるのも面白い。

時々書くけれど、アメリカで非の一点打ち所がない男性が、つまり社会的にも家庭的にもお金、権力全て恵まれていたのにもかかわらず、自殺してしまった方がいた。誰も思いあたる節がなかったようだ。

私はひそかに(彼は暇だったのではないか)と思っている。何も案じることがない状態で却って、生きることの意味を見失ったのではないか、と。

白い百合は父方の祖父が好きでした。

ところで、難民の方の集団自殺とか聞いたことがない。宗教団体の集団自殺は聞いたことがある。戦争状態にある地域の集団自爆も聞かない。そのことを、うちにいらした方に話したら「皆、生きることに大変な所は、生きることに必死で、余分なことは何も取られて、生の本質が見えて、だから大事にするのではないかしら。」とおっしゃった。とても納得した。生きることに必死で「暇」ではないのだ。

自殺したアメリカ人男性のことを考える時、残念に思うのは、もし自分のことだけを考えるのではなく、人のことも考えることができたら、自分が他人のためにどれ程のことができるか気がつき、そうしたら、めちゃくちゃ忙しくなっただろう、ということだ。(彼なりに忙しすぎて自殺した可能性もあり、あくまで私の「暇」だったんだろうという推論にたっての感想)人の立場にたち、行動することによって、人から求められ頼りにされたら、違った種類の生きがいを彼にもたらしたはずだ。

という様なことを暇な時に考えた。あれっ、やっぱり「暇」って必要かしら。

 

ちょっと失礼な話

今日は「食」について、ちょっと失礼な話を書こうと思う。前にも書いたと思うけれど若い時、ツアーを利用して友達とイギリスに行った。その時は七カ国ヨーロッパを回ったのだけれど、一番初めに着いたのがヒースロー空港、つまりイギリスだった。始めての海外でもあった。その時食べたイギリスの食事はどれを食べてもまずくて、荒く刻んだキャベツには、まだ土が付いていたりした。レストランで周りを見回すと、イギリス人が家族でも友人でも、黙りこくって出されたものを食べていた。私達は、「イギリスの人って、食べることが楽しみじゃないんだね。まるで義務みたいに食べて。これだけおいしくなければ、しょうがないか。」などと勝手なことを言っていた。

最近になって、どうやら日本人の食に対する意欲、関心は尋常ではない、ということがわかってきた。ある外国の旅行客の言っていることを耳にした。「『ご当地自慢』と書いてあるので何かと思って行ってみたら、食べ物だった。日本はどこに行ってもそこの『自慢』の食べ物がある。」確かに、そう言われてみれば。。。iイギリスに行って以来、何となく、外国の方は食にあまり関心もなく、味覚もそれなりになっているのだろう、と思っていた。

もうアメリカの生活の方が日本より長くなった姉が、日本でうちに滞在した時、夕食の後、「いいわね。あなた達、毎日こんなおいしいもの食べているの。」と溜息交じりに言った。(私の手料理、少し自慢)確かにアメリカでは生活が忙しく、外で食べるお昼は必ず、マクドナルドの類で毎日続くと本当にあきる。姉は日本人だから、やはり日本食が好きなんだと思っていた。

しかし、最近テレビを見て気がついた。日本の食のおいしさに気がついた外国人が、「これを食べたい」と目指してまで、日本にくる。または海外でも「日本食」はおいしいと、インスタント・ラーメンが人気だったりする。ということは、人の味覚は食べ続けたものを美味しいと感じるだけでなく、誰が食べてもおいしいものはおいしい、という人類共通の味覚部分があるのではないのだろうか。これは私にとって大きな発見だった。そうだとすると、これからも日本食は世界を席巻するだろう。

季節はずれですが、お花はいつ見てもいいですね。

これで終わってしまったら、気功師のブログらしくないので、もう少し書いておこう。人の中には良心というものがある。多分これも、人類共通の味覚と同じく、人なら誰でも共通に、多少の差はあれ生まれた時から与えられているものなのだろう。良心はスピリチュアリズムで、人は心に神を持っているという根拠でもある。これがあるために、人は嘘をつくと心が痛む。残念ながら嘘は人にはつけても、自分にはつけない。そして良心はそれを本当は許さない。(人のためにつく嘘もあるが、これは良心が納得する)結局、嘘をつくことで痛めつけるのは自分の心、ということになる。今、これに気づいて欲しい方が何人もいる。

人との縁(まだ結婚しない子供達へ)

スピリチュアリズムを学んでいるが、その中に「波長の法則」というのがある。人は自分の心のあり方が、出会う人や出来事を決めている、という法則。熱愛して結婚しても、「こんなはずではなかった」と別れていくことがある。親に勧められたお見合いで、(今時そういうのは珍しいけれど)始めはそんなに好きでもなかったのに、ずっと連れ添う夫婦もいる。出会った時の波長が低くて同じような波長の人と結婚してしまっても、お互いに霊格、人格を高めていければそれは素晴らしいと思う。

しかし、どちらかだけが高くなってしまったら、どうしてもお互い、居心地の悪さというものが出てくる。今だからこそ、自分の心の状態に気をつけるが、若い時はそんなことは思いもしなかった。本当の意味で添い遂げるのは、とても難しい。女性が「お金のため、生活のため」我慢して一緒にいることも多々ある。

うちの近くの夕焼け空。

だから、出会った時の自分の波長を慎重に分析することが必要だが、例えば結婚に関しては「何故自分は結婚したいのか?」という動機も内観しておいた方がいい。というのも自分の経験から、夫婦が同じ目標を持ち、大事なところで同じ考えを持つと力が倍増するが、そうでないと非常にやりにくくなるからだ。

でも、まあ、概して男女の結びつきは相手をしっかり見ないで、自分の幻想の中で作り上げた相手に勝手に惚れ込む、ことから始まるのではないかな、という夢のない意地悪ばあさん的なことを言って締めくくります。でも、真剣に真面目に考えた結婚なら、それだけのことはあるでしょう、という希望的な観測も付け加えて。

なんともはや

今、世界情勢、特に政治の世界は現実のものとは思えない。何が本当のことか良くわからない。私の感性からすると、政治家は強がるのは職業上仕方のないことかもしれないが、少なくとも並以上の品性が欲しい。でも品性どころか相手を出し抜いて、たたきのめすのが正義だ、といわんばかりだ。お願いだから小国、日本を巻き添えにしないでよと言いたい。自分から巻き添えになろうとしていると思えなくはないが。。。

山への憧れ、いつもあります。余裕ができたらまた登りたい。

クラスでも、時々世界情勢の話が出る。「ボタン一つで決着のつく時代。気がついたら、みんなであの世に移っていたというのなら、それはそれで楽かもしれない。一人だけとか生き残ると大変ね。」と言っている。可能性はあるかもしれないが、常にそれに怯えるのは時間=人生がもったいないと思う。それにしても随分短期間で世界は変わった。つい20年位前までは、今から考えると本当に大らかな時代だった。そして日本はなんて幸せな国だったのだろう、と今更にして思う。いや、紛争やテロが日常的になってしまった所から比べると、日本が今も幸せなことに変わりはない。しかし、どんどん幸せな基盤がもろくなっている様な気がする。

87歳の母まで終末を宣言され、立川と武蔵小金井の病院をほとんど毎日、振り子のようにいったり来たりしているので、この夏はあまり他のことを考える余裕がなく過ぎてしまったが、ニュースは災害と政争、虐待の話ばかりで、繊細な方は情報のない世界に行ってしまいたい、と思われたことだろう。国立の我が家にいると、虫がうるさい程鳴き、木の実はたわわになり、昔と何ら変わりがなく、自然の声をず~っと享受していたい誘惑にかられる。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのようにつぶやいてみる。「明日、考えよう」と。

師走、私走(年末じたばたの巻き)

、今年は「時間が早い。もう年末。」という言葉を色々な方から聞いた。私もそう思う。何故今年はこんなに早く過ぎてしまった、と感じるのか。仮説だけれど、リオオリンピックのせいではないか。オリンピックに気をとられているうちに、時間が早く過ぎてしまった、のではないか?

立川の夕暮れ

立川の夕暮れ

平均寿命を聞いてまだまだ、と安心していてはいけないと思う。健康寿命はもっと短い。(70代半ば)自分の現世での活動を考える上で、そこを一区切りにして、それからはまた生き方を変えて生き抜こうと思う。誤解されないように書いておくが、どんな健康状態でも世の中に役に立たない人間なんていない。経済の尺度で人を量ると、いずれ人工知能がもっとも効率的で「偉い」ものとなるだろう。でも各々の役割という点から見ると、どんな人でも皆かけがえのない魂を持つ人間だ。

統計的に健康寿命が出ているなら、それを目安に人生の計画をたてるのは悪いことではない。自分はどう生きるか、が大事なのだから。健康寿命、或いはその先の天国に行く日(行けるかな?)を意識すると、つまらない争いに気をとられるのは時間の無駄ということがわかる。自分がしたいこと、来世に向けてのスキルアップ、魂がしておきなさい、とささやくこと、みておきたい場所、芸術、読んでおきたい本、楽しんでおきたいこと、こういうことを考えると本当に時間が足りない。

毎年守れない「新年の誓い」は諦めて、「今日という日」を全力で生きることにします、という趣旨にした。これも新年の誓い?

 

時について

建物の玄関で見かけた花。花はどこにあってもそこに花を添える。

建物の玄関で見かけた花。花はどこにあってもそこに花を添える。

人生はよく「旅」に例えられる。電車に乗って外の風景を見ているうちに、時間と人生について考えた。何もしないでぼんやりしていても、時間は過ぎていく。時間は窓の外を過ぎ行く風景だ。変わっていく社会の状況かもしれない。人生はいつも電車に乗っているわけではないが、自分は座っていることしかできなくて、ただただ時間だけが過ぎていく。そんな時もあるだろう。そういう時はゆっくり座って風景を眺めるか、或いは居眠りするのもいいかもしれない。目的の駅に着いたら、電車を降りてまた元気に歩き出そう。或いはそのまま「死」という終着駅に着くかもしれない。それでもいいではないか?人生を生き抜いたのであれば。考え方を変えれば、何もしなくても電車という時が私達を運んでくれるのは「生き抜く」ということを目的とするならば、一つの救いだろう。もし電車の中で、色々なことを考えることができたら、それは後で大きな実りになるかもしれない。引きこもっている方達やフリーズしている方達もこんな風に見方を変えて、人生を乗り切ってほしい。

前に書いたかもしれないが、もう8月にクラスの忘年会の計画を立てて、クラスの予約を入れなければならなかった。予約を入れた途端、なんだか12月が急に現実的になり、思わず「え~、もう今年、終わっちゃうじゃない。早すぎる~。」と嘆いたら、「冨田さん、予約ですから。」と慰めてくれた。でも書類を見ていたその方は次の瞬間、「あっ、もう1月の予約が出来ますけれど、どうします?」と言ってきた。Time flies! (光陰矢の如し)

ショックなこと

今日、とんでもないニュースを知った。「フランスでトラック突入80人死亡」 何故フランスを狙うのだろう。子供も多数いたようで、そして犯人はたいてい射殺され、「テロ」の一言で不条理な殺人は片づけられてしまう。いつしか深く考えなければいけない問題も、次から次へと起きる殺戮と自然災害で上塗りされ、忘れられてしまう。テロ、虐待、自殺の共通する部分を一度徹底的に検証する必要があるのではないか?経済格差、満足と不満足、幸せと不幸せ、自己と他人、アイテムはいくらでもありそうだ。混沌としてきた世の中で自分の立ち位置をどう決めるか?どの様に自分を貫くか?これからこの様なことをしっかり考えていかないと、すぐ足元をすくわれそうな気がする。フランスの犠牲になった方達の死が無駄になりませんように。        合掌

ここから書くことはとても個人的で、他人様にはどうでもいいことなので先にお断りしておく。深刻なことを書いた後でずっこける様なことだけれど、どちらも私が感じたことだからしょうがない。京都の伏見稲荷に行った、と前のブログで書いた。そこの入り口付近で占い師の方がいた。いるな~と思いながら前を通っただけなのに目が合ってしまい、一緒に行った友達が思いがけず「いいわよ。どうぞ、どうぞ」と言うので気の弱い私はつい手相を見てもらうはめになった。今覚えているのは、「人のために仕事をしている」「今年は仕事運はいいだろう」そして一番気になったのは「珍しい!女性にしては色々な線がすごくはっきりしている。感情線以外は全て男だね。」と言われたことである。感情線が情が深いことを表していて、人間関係でも冷たく割り切ることができないそうだ。でも感情だけ女性で他は男らしいってどんな人生になるのだろう?と、とても不思議に思った。

窓ガラスの向こうの風景

窓ガラスの向こうの風景

さて、最近「色えんぴつセラピー」という本を手にいれ、色から何がわかるんだろうと好奇心の赴くままに付属のシートの九つ書いてある丸に色を塗った。その総合判定的な色の組み合わせの解説を見てびっくり。「こういう色を選ぶ人は男性に多い。この場所に男性は赤か黄色を塗る。」が~ん。ぴったり当てはまる。始めの所で色の塗り方から私は「束縛を嫌い、自由になんでもしたい。」と出て、その後も何か色々と当てはまって、これは信憑性が高いと感じた最後のところだったので、「はっ、私は感情面でも男になってしまったのか」とショックを覚えた。母親が姉の次に男の子を強烈に望んだせいか?(ちゃんと私を可愛がって育ててくれた)子供が男の子ばかりだったせいか?(そういえば家族の中で一番男らしい、と言われたことがある)それとも仕事を始めて社会に触れる機会が多くなったせいか?なんとなくあせる気持ちで最近少し手を抜いているお料理をしっかり作ったり、着物を着る機会をもう少し増やそう、などと考えたりした。果たして効果があるかな?

なんでだろう?

母の施設に飾られたお雛様 (お顔がばれない様に少しぼやかしました???)

母の施設に飾られたお雛様
(お顔がばれない様に少しぼやかしました???)

色々と「なんでだろう?」と思うことがあるが、政策痛烈批判のブログが最近話題になっているようなので、そこの部分は避けて書こうと思う。まず、テロを繰り返しているISはどこから武器を手に入れているのだろうか?世界の主要な国を敵にまわして、公にはどこも支持、支援するところはないように思うのだが、それでも勢力を保っているのが不思議でしょうがない。支配した地域が余程潤沢な所だったのだろうか?多分私には知りえない複雑な事情が混在しているのだろう。紛争地域のニュースを見るたびに「殺しあわなくても、いずれ死ぬものを」という言葉が思いうかぶ。「十分生きた。」と満足して最後を迎えたい。

最近気になることは、何故日本には女性にしか使われない言葉があるのだろう、ということだ。「若妻」「新妻」「未亡人」「古女房」ざっと思いつくだけでもこれだけある。男性に関してはわずかに「男やもめ」という言葉があるが、これも「やもめ」という女性をさす元になる言葉の対としての言葉だろう。まぁ、「ぬれ落ち葉」という悲しい名前がつかないだけ、女性は良しとするべきなのかもしれない。

話はどんどん落ちるが、この前みつけた面白い言葉遊び。(結構こういうの好き)「なすがまま」の後に続く言葉は?答えは「きゅうりがパパ」です。(笑)

「ひね」おばさんのつぶやき

世の中の言葉の中には、若い時なんともなく受け入れていたけれど、今になるとちゃんちゃらおかしいや、という言葉がある。(ちゃんちゃら、という言葉今でも使うかな?)その最たるものが若い男性が女性にささやく「君を一生幸せにする。」「守ってあげたい。」の部類の言葉。外国でもこれに類似する言葉あるのかしら。I want to make you happy.(君を幸せにしたい)くらいはあるだろう。

大体これらの言葉は結婚をほのめかすものとして使われるが、本当に人は他人を「幸せに」することを保証できるのか、また「守る」という言葉はそもそも上から目線で、さる集団のボスザルと雌ザルの関係ではあるまいし。。。と思ってしまうのである。

山から降りてきた日本狐に襲われた谷保神社の鶏達。でも何匹か生き残った。また増えてほしい。

山から降りてきた日本狐に襲われた谷保神社の鶏達。でも何匹か生き残った。また増えてほしい。

もっとも、こんな言葉を真剣に受け止めている女性はほとんどいないと思う。「好きだ」という拡張子くらいにしか捉えていないだろう。従って私が別にめくじらを立てる必要もない訳だけれど、たとえ結婚しても人から幸せを保証してもらうことは不可能だし、守らなければいけないのはまずわが子であり、生活そのものであるので、始めから甘い幻想は持たされない方がいいわよ、とひねおばさんは(ひねの意味は”ひねくれている”のひねではなく”ひねしょうが”のように使われる「古い」の意味です。念のため)つぶやくのである。