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父が亡くなりました(3)

お葬式は何度も打ち合わせをしたり、亡くなってから中三日あったこともあって、思った以上にきちんとできた。思いがけなく、父を直接知らなくて私だけの関係の方も四人も来て下さった。会社関係の方もお一人だけに伝えておいたら、会社を辞めてから30年以上も経つのに、四人の方が駆けつけてくださった。時々父が訪ねた母の施設長や自身がお世話になった施設長、親戚も豊橋から新幹線と中央線を乗り継いで来てくださった。本当に有難かった。

国立に住んだこともなく、会社を60台前半で辞めてから特に何をするわけでもなく、豊橋の家を管理することを生きがいとして30年以上も過ごしたので、(会社を立ち上げ本も出したが、うまくいかなかった)また、年が年だけに友達は皆天国にいて、こじんまりとしたお葬式になるだろう、と思っていたけれど、皆様の温かいお気持ちで沢山のお花、生花、供え物に囲まれて、父にしては華やかに旅立つことができた。

秋に生まれ、秋に逝った父。今年は紅葉、綺麗ですよ。

国立のドリーミーという所で行なったのだが、立川の施設と比べると小さな二階建てのホールで、そのためか一日一つしかお通夜とお葬式は行なわず、落ち着いて送ることができた。私は五月に参列したお葬式では一度に四つしていて、お手洗いから帰ってきて会場に入ったが何だか雰囲気が違うのであれっ、と思って写真を見ると全く違う方で、慌ててそこを出たことがある。隣りの会場に入ってしまったのだ。私がその時参列した方は女医さんで、最後の最後まで仕事をしてらしたので人が好きだったから、こういう所でお葬式になるんだろう、と思ったのを覚えている。

始めは立川の大きなホールですることが決まっていたのに、日程上、国立のホールになった。今考えると、父は絶対その方が良かったのだろう。最後の五年は一人で暮らし、一人で逝った人だから。自分で選んだと、そう思っている。

しかし父に言いたい。「最後まで皆さんのご好意を沢山受けて、幸せでしたね。でも、世界には、死んでも手厚く葬られないで土に返る方もいます。それどころか、戦争などで、亡くなったことさえも知られない方もいます。そういう方にも思いを馳せて、そちらの世界では生きてください。」と。亡くなってからも口うるさい、可愛くない娘です。

父が亡くなりました(2)

父は病院で特に午前中、私の名前をよく呼んでいたらしい。私の名前はなかなか読めないので、どこの病院でも、「どなたを呼んでいるのかと思ったら、お嬢さん(???)だったのですね。」と言われた。そんなに頼りにされているのかと嬉しい反面、父が人生の晩年になったら、自分の子供のように思えることもあって、それは何だか荷が重いというか「あなたの心にいつもいなくてはいけないのは、母でしょう。」という気持ちもあって複雑だった。

前にも書いたが、一人で暮らしていた時はやはり食事のことと病気になったお尻の世話が心配で、徹底的に世話をした。けれどあまりの惨状に「一人でここにいる。ほっといてくれ。」というのを姉と騙す様にして連れてきて、うちの近くの施設に入ってもらった。偶然、福祉が進んでいる北欧の高齢者の過ごさせ方の本を読む機会があった。そこには「あくまで、本人の思った通りにさせる。たとえ、家で糞まみれになっても、本人が望むならそうさせる」という様なことが書いてあって、連れてきてしまったのは自己満足の偽善だったか、と今でも時々そう思う。

クラスのSさんから頂いたお花を父の遺影に捧げる

救いだったのは、若い看護士さんを好きだったことだ。T病院でもS病院でも大勢の若い看護士さんに世話をして頂いた。S病院で、ある看護士さんから「お父様、お元気ですね。私の体を触りたがって。」と笑いながら言われて、あっと思ったけれど「人恋しいんでしょうね。」と返しておいた。心の中で「あのね、いい加減にしてよ。」と思ったけれど。。。

人は亡くなる時は状況を選ぶと思っている。(選べる範囲で)父は若くて元気のいい看護士さんに声をかけられ、笑顔で返した後、一人で旅立った。多分、私や家族がいたら逝きにくかったのだろう。「人は生きたように死ぬ」と聞いているが、誕生日(10月20日)までは頑張ってね、と言った私の最後の願いをちゃんと聞いて、しかも気功クラスをお休みしなくてもいい日を選んで亡くなった。結構、律儀な人だったんだ、と思えることが嬉しい。

最後に会った時、私にはっきりと「富士見台(練馬区の住んでいたところ)に帰りたい。」と言ったので、「わかった。帰ろうね。」と声をかけた。ず~っと自分が日本にいるか外国にいるかもわからなかった人が、最後の最後になって、自分の状況を理解したのだと思うと、やはり切ない。「どう関わっても必ず悔いは残る。」のが親の介護だというが、「ここまでしかできなかった。ごめんね。でも全ての執着は捨てて、浄化してください。」と祈る日々である。

 

父が亡くなりました(一)

父が11月3日に亡くなりました。誰もいない時に逝ってしまったので、二日だったかもしれません。以前から父のことを考えたとき、23という数字が浮かび、23日と思っていて、今回は違った、何だったんだろうと少し気にしていたら、従姉妹が「二日か三日の23ではないの?」と言ってくれて、そうだったのかなと思いました。

なくなる前、不思議なことが沢山あって、アメリカから帰ってきた姉がいる時、はっきりと「敏江(亡くなった妹)が迎えに来ている。」と言って、私を見て「敏江だな。」と言ったり、誰もいない部屋の隅を指さして、「背の高い女の人がいる。」とつぶやいたり、姉とびっくりして顔を見合わせました。「知らないうちに誰か入ってきて、しらないうちに出て行く。」とも言いました。

兄弟と争続した一人が妹で、その方は後で改名したので、敏江という名前は改名前の名前のようです。私にとっては叔母ですが、その方の亡くなったことを父には知らせてくれないほど、(私には喪中の葉書で知らせてきました。)冷え込んだ仲になってしまいましたが、ああ、向こうで「争いはばからしい」と思い直してくれたんだ、と嬉しく思いました。

助け合えば、心強く、どんな人でも得意、不得意あるので仲がよければ補い合っていけるのに争うと、それもたいてい多くもない財産、土地のことで、従姉妹との仲は断絶するし、本当につまらないことと思ってました。

亡くなる五日前には「ひろしが来ている」と言いました。この方も争った弟です。ああ、向こうでやっと大円団と安心したら、その後まもなく穏やかに息をひきとりました。

父も散歩した道

 

父のつぶやき

父は、五月の母の日以来、尿が出なくなって入院している。そのせいで父が管理していた色々なことが全部押し寄せてきて、ただでさえ忙しい生活だったのに事務的なことで忙殺されている。特に豊橋の田舎の山にある、内部を船に模した自分で設計した家(父が何よりも大事にしていた)が50年以上も建ち、これをどうしたものか頭を悩ませている。急な坂の上にあるので、私は何十年も前から「年とってから、この坂は上れない。売って、もっと優雅な生活すればいい。」と言ってきたのにその度に激怒して、「貴子にはあの家は譲らん。」と親戚にも触れ回った。

涼しそうなので、暫く富士山シリーズです。

涼しそうなので、暫く富士山シリーズです。

ある日病院に行った時、積年の恨みとばかり大声で言ってみた。「多米のうちはどうするの?私は豊橋まで行って管理できないよ。固定資産税、ばかにならないんだけど。。。」すると「わしも行きたいんだけど、どうにもならん。だけど行っても、庭の手入れもできないから。わしはもう何の役にもたたん。」

えっ、と思った。思わず「お父様、誰も何の役にもたたないのよ。」と返した。私にしたら、いつもやたら威張っていた父の意外な返事だった。言いながら突然訳のわからない悲しみが襲ってきた。

人は多分、自分は何かの役にたっていると信じて生きているのではないのだろうか?でもそれは本当だろうか?他の生き物から見たら、或いは地球からみたら、ひょっとして迷惑だけな生き物ではないのだろうか?そのことを最近、特に気候で感じる。結局人は、人生を自分なりに精一杯、謙虚に生き抜くしかないのだろうと考えながら、病院から帰ってきた。

父とのこと

尿が出ないまま入院している父に、できたら隔日に会いにいくようにしている。時々オオボケする。この前は私をみた途端驚いて、「あんた、なんでここがわかったの?」と言う。私もしょうがないので合わせて「病院が教えてくれたのよ。」と言うと、「ほ~、すごい病院だな。」とまた驚いている。「あんた、どこから来たの?」と聞くので、「東京」と答え、「お父様、どこにいるの?」と聞いてみたら、「四国」と言うので、やっぱりと思って「四国のどこ?」と聞くと「高松、この前船から降りた。」と言う。造船会社の設計技師だったので、その時が人生の花だったんだなと少ししんみりした。

暫くして、「もう帰るわ。」と言うと「どうやって帰るの?」「自転車」と言って、父が再び驚いた顔を見て、しまったと思った。ここは「飛行機」というべきだった。後日アメリカ在住の姉にこの話をして、「飛行機、といっていく度に10万円貰おうかな。」と言ったら「そんなことしたら、(母の)施設代や(父の)入院代が払えなくなって困るのはあなたじゃない。」と大笑いしていた。その通り、です。

それから2,3日して行ったら真面目な顔をして、「ここは立川だな?」と聞くので「そうよ。」と言うと「あんたはどこに住んでる?」ともう何回も聞いたことを言うので、私も「国立、ここのすぐ近くよ。」と多分20回は言った返答をした。するとふ~んと言ったきり黙って目をつぶった。

6月20の富士山。河口湖にて。この時期滅多にみられない富士山の雄姿でした。

6月20の富士山。河口湖にて。この時期滅多にみられない富士山の雄姿でした。

なんだか自分は高松にいる、と思っていた時の方がにこにこしていて幸せそうだった。お医者さんは「病院にいると認知が出るので、頭をはっきりする薬も出してます。」とおっしゃっていたけれど、今は夢の中にいる方が幸せじゃないのかな、と複雑な気持ちになった。一生懸命治療していてくれる病院にそんなことはとてもいえないけれど。

父が長引いているのは、尿の出ない原因がわからないから。原因がわからないと治療法もわからないのは、西洋医学の弱点でもある。気功は邪気のありかはわかってもどういう病気か具体的にいえないのが弱点ではあるが、邪気を祓うことによってヒーリングはできる。組み合わせればかなりのことができるのに、といつも思う。とにかく父に早く良くなってもらって、また母に会わせに施設に連れていきたい。

 

人間の中の天使と悪魔(2)

題から、私が父の中の悪魔と天使について書きたかったのだろう、と普通は思われるだろう。でも違う。実は自分の中の悪魔と天使についてである。社会福祉の職についている方が「男の人で、おりあらば女性の体に触る方は年配の方で沢山とは言わないけれど、結構いらっしゃいますよ。」と言っているのを聞いて驚いたことがある。「どうするんですか?」と聞いたら「あら~、駄目ですよ~。」と言ってやんわり止めさせる、とおっしゃっていた。ふ~ん、私は若かったんだなとその時思った。とにかく、育ててくれて成人した、ある程度の教育も身につけさせてもらった、おいしいものを沢山食べた等々、考えると感謝こそすれ、憎む理由はあまりない。

家族というのは意外にやっかいで、「親」だから「子供」だからという理由で他人とは全く違う関係になってしまう。精神世界の勉強で学んだように、「一人の人間」と捉えれば「会社でかなりのストレスを感じていた少しスケベな親父」で終わってしまう。でも戦争も乗り越え、とにかく真面目に家族を養ったことは忘れてはいけない。子供から見ればそれが当然と思ってしまうが、父親、夫、世帯主という責任を背負って生きてきたことに間違いはない。では私の憎しみはなんだったのか?

母から父の愚痴を聞かされ続けたのは大きいと思う。でも父を憎んだ心は、自分の欠点を父の中に見たからではないのだろか?もしくは自分のストレスや暗い部分が父の中にある同じような部分に過剰に反応したのかもしれない。反応したのは私の悪魔の部分だった。人間なら誰でも心の中に悪魔と天使がいて、ただ、その割合が人によって違い、生きるということは天使の部分を広げる作業だという説に今の私は納得している。

さくら、さくら、今咲き誇る、でした。

さくら、さくら、今咲き誇る、でした。

昨日、父の手術で病院にいた。そばにいると安心するようで無事手術も終わった。今は何かしても「有難う。あんた時間使わせて悪いな。」と穏やかに言ってくれる。ここまで来るのに随分な時間、かかったね。母が倒れた5年前、父のせいだとその時も憎んだが、それも自分が母に十分なことをしてあげられなかった、という思いから出ているのだろうと思う。勿論これから父も、自分について反省する時間はたっぷりあるだろう。でもそれは私には関係ないこと。人は自分の中の悪魔と戦えるのは自分でしかない、ということを私はやっとわかった。

人間の中の天使と悪魔(1)

前回、父のことを露骨に書き過ぎてしまったと反省している。「覆水盆に帰らず」なので、今回は今まで父に憤ったことと感謝したことも書いておこうと思う。母は80近くなって驚くほど腰が曲がり、歩行困難になった。そんな母を父は疎んじた。どこかに行く時も、自分の奥さんだと思われるのが嫌だったようで一緒に歩かず、なるべく離れて歩き、電車も違う車両に乗った。なので、母は段々外出をあきらめるようになった。二人しかいない家の中で、口が達者な母にいらだつと時々手をあげた。そんな話を母から聞くと、私は(今から考えると)こともあろうか、「やられたら、何でもいいから近くにある物を使って反撃しなさい。お父様も痛いということがどういうことか、わかった方がいい。」と言った。あやうく母か父を人殺しにするところだった。

そんな父にきれて、何を言ったか忘れたが、多分もの凄くきついことを言ったのだろう。何か言って父は黙り込んだ。そうしたら、後から母から電話がかかってきて、私に話しがあると言う。何かと思って会ったら、私が言ったことを父が母に言って悲しんで涙ぐんだという。何と「お父様が可哀相だから」父に謝れ、という。確かアメリカから来た姉と甥夫婦のために大奮闘して、父母も一緒に旅行をした最後の日にお礼の一言もなく、これ以上理不尽なことはないことを言われ、それに対して反発した言葉だったと思う。金銭的にもほとんどうちで負担したのが、父の沽券にかかわったのだろうか?親孝行もかねてしたつもりが「謝れ」という結果になり、また逆上しそうになったが、それよりもその時ほど「夫婦関係は子供でもわからん」と思ったことはない。

お寺の桜

お寺の桜

そんなあまり感心できない親子関係だったが、父は私に子供ができると、正確には長男が三ヶ月ぐらいしてから急に可愛くなったのか、それこそ「目に入れても痛くない」という言葉がぴったり当てはまるくらい可愛がった。残念ながら転勤族で、長男が一才過ぎたら遠く離れてしまったけれど、男の子三人、皆可愛がってくれた。この愛を妻と子供に少し向けることができなかったのかと思ったこともある程、私は別人を見るような思いだった。私達は勉強でわからないことがあって聞いても「なんで、こんなことがわからんのか」と先ず怒られ、しょっ中「ばか」と言われて育った。ところが、長男が二浪が決まった時、わざわざ電話してきて「男はいずれ社会に出る。人生の中で二年余計に勉強するのは、有意義だ。」と言ってかばった。私は心の中で「そんなこと言うなら塾代出してよ。」と思ったけれど、気が弱かったので(?)言えなかった。

再び、父とのこと

父は頭のいい人だったが、(あくまで学問的な意味で)母から言わせると「とても利己主義」な人で、小さい頃からそう何度も聞いてきたので、母が好きだった私は父が好きではなかった。特に思春期の中学生、高校生は多分憎んでさえいた。大学生になると胸やお尻に触りたがり、憎しみを通り越して嫌悪になった。外から見ると優秀な平和な裕福な家族で、非の一点打ち所がなかっただろうと思う。母は一生懸命それを演出していた。私はある程度協力したが、姉はあほらしくなったのかアメリカに留学に行き、それきり帰ってこなかった。私も結婚して家を出た。

 

さくら、さくら、今咲き誇る♪

さくら、さくら、今咲き誇る♪

私が生まれた家族の物語は、これで終わるはずだった。しかし気功師を名乗るようになって、必要に迫られて精神世界を勉強するようになってから、終わった、と思っていた家族関係の大きな見直しを迫られた。「家族は学校であり、親はOB、OGである。」「家族は自分の映し出しであり、自身の向上のためにそこから学ぶためにある。」「憎いというのは、何かを期待して、依存している証拠である。自立していたら、親を一人の人間として見ることができ、理解できる。」これらの言葉は親と言えば「親孝行」か「親不孝」しか思い浮かばなかった私にとって、斬新で、まさに目から鱗が落ちる思いであった。

結論から言ってしまえば、つい最近家から車で5分、自転車でも10分足らずの距離の施設に入ってもらった95歳の父と、いつも使う駅から見えるくらいの距離の施設にいる、87歳の母の世話をしていると、(本当に世話をしているのは施設の方達だけれど)ああ、これは神様が私に家族関係の修復のために用意してくれた時間なんだとしみじみ思う。特に疎ましいとさえ思っていた父を車椅子に乗せて、病院の中をあちこちして、余分な検査は受けないように奮闘していると、時々保護すべきベビーカーに乗せた子供を押している様な、不思議な気持ちになる。

昨日帰りにママ友に会い、そんな話をすると、「お世話になった恩返しができて良かったわね。」とさらりと言われた。そうなんだ、これは家族関係の修復というより、自分が後悔しないための私のための時間なんだ、と気づかされた。昨日は曇り空だったけれど、桜は満開で美しかった。病院でついでにお見舞いに行った方の部屋から見た桜は、息を呑むほど美しく、壮麗という言葉がぴったりで、吉野の桜もかくやと思われた。(肝心なところで写真を撮りそこなった。ゴメンナサイ)振り返って、ぎっしりとドラマの詰まった一日だった。

 

年をとるということー父の話(2)

父も母もとても頑固だった。私が社会人になったら、それは余計ひどくなった。外資系の損保会社に就職し、世の中のお金の動きに少し敏感になり、そんな時バブルを迎えた。「今が売り時。」私は父が所有する不動産についてかなり頑張った。すると父は激怒した。親戚中に悪口を言い、「あの子にだけは、あのうちはやらん。」と宣言した。父の設計した立派なうちだったが、結局50年以上誰も住まず、家が哀れだった。そこに法事の後、久し振りなので、父がさぞ喜ぶだろうと思って子供達と連れて行った。すると開口一番「なんでこんな所に来た?帰ろう、帰ろう。」だった。

途中から、父母はお嬢ちゃん、お坊ちゃまの組み合わせだから、私の基準で何か言ってもしょうがない、と思うようになった。私が学んでいるスピリチュアリズムでも、「親だと思うから腹が立つ。それは一種の依存です。」と言われ、余程困ること以外は自分とは関わりのないこと、と思うようにした。そうこうするうちに親子の立場が逆転した。父の肛門が緩くなり、漏れてもほっておくので、匂いに敏感な私はすぐわかり父の大便と格闘することも何度か経験した。

白い百合は祖父が好きな花だった。

白い百合は祖父が好きな花だった。

赤ちゃんと一緒でお尻を拭いている最中に刺激されて、溜まっていた便がどんどん出てくる。トレペをかなり使ってから、気がついてトイレに座ってもらった。その間、自分でも拭こうとするので惨状はひどくなる。ある時、肛門から7cm程垂れていたものを見つけた。取ろうとしてもなかなかとれない。あれっ、と思ったら腸だった。子供で経験があったので、押し戻したら2cm程残ったけれど入っていった。(お医者さんに相談して手術決定)悪臭と戦いながら、いつも思うことは「男の子三人育ててよかった。」ということだ。扱いなれていたので、抵抗がないことはないが、何を見ても(笑)卒倒することはない。

姉がアメリカに行ってしまったから一人娘みたいなもので、私の両親だけまだ残っている。傍から見たら損な役回りかもしれない。まだ、介護した人が多く遺産を頂けるという法律もない。でもどこかで、近くで親の世話をできるのは私が幸せな証拠と思っている。助けてくれる方が沢山いるので、燃え尽きる心配もない。口が達者な母は、脳の言語野がやられたので不満も言わない。(浪人している時は母の言葉でノイローゼになりそうになった)今、施設でにこにこしている母を見ると本当に嬉しくなる。

父に対しては複雑だったけれど、最近あることに気がついた。人に対して、親切にするとか思いやりをもつとかはほとんどない父で冷たい人だなと感じていたけれど、自分に優しくしてくれなくても文句は言わないし、自分の状態に不満も口にしない。もう少しこうしてくれればというのもあまりない。母とはいつも喧嘩していたけれど。。。やさしいヘルパーさんやケアマネさんの支えも大きいのだろうけれど、その点はとても助かる。お坊ちゃまなので、人に大便の世話であろうと何であろうと、何かしてもらうのに、たいして遠慮がないのも私にとってはやりやすい。これをいちいち、恥ずかしがったり、嘆いたりされたら却ってやってられないだろう。

そして、あまり抵抗なく父に関わっていられるのは、近い将来の自分の姿をそこに見ているからだと思う。ああ、年をとったら、とてつもなく頑固になって、色々なこと、ついには下のことまでできなくなって、朝も昼もわからなくなり、食事を作るのはおろか冷蔵庫から食べ物を取り出すのもできなくなるんだ、と学ばせてもらっている。父以外の全員一致の意見で、今月近くの素敵な施設に入ることになった。体験の時は喜んで帰るのを嫌がったくらいなのに、おとつい施設長と行ったら全く忘れていて、「この家を離れるわけにはいかん。ほっといてくれ。」と威張るので、「ほっておいたら、何も食べないから干物になるよ。」と言ってきた。

 

年をとるということー父の話

よく母の話はしてきたが、今日は父のことを書こうと思う。所謂、勉強の頭はすごく良くて、エリートコースを歩んできた。母が倒れて施設に入っても、人付き合いが嫌いなのと家フェチなところがあり、90を過ぎても一人で暮らし、とうとう95になった。すごく良いヘルパーさんやケアマネさんに恵まれて、又ワタミの宅配を利用していて必ず声をかけてくれるので、私は月二回ほど顔を出すだけで何とかまわっていた。

部屋から見る冬の庭

部屋から見る冬の庭

ところが、去年あたりから少しおかしくなってきた。「来い。話がある。」と言うので行くと「あんた、何しにきた?」と言う。決して近い距離ではないので、がっくりくる。今年になるともっとひどくなり、昼に行っても雨戸は閉めっ放しで、大声で起こすと「なんで明け方に来た?」と言われる。

法事の時の引き物を始め、色々なものを豊橋の会館に頼む時、「費用は父が出すので、父の名で。」と言ったのだが「いえ、頼んだ方のお名前で。」と言われ自分の名前を書いたのだが、これが騒動の元になった。会館使用料や引き物やお食事の合計された請求書が父に届いた日から、(その日までに既に支払って、父にも報告をしていたのだが)20万円以上の買い物を私がして、その請求書が自分にきたと思いこんだ。毎日電話が二回ずつ入り、「あんたな~、二月一日付けで請求書が来ているけど」と始まる。いちから説明して、「ほ~、そうか。」で一度きる。そして寝る。起きると又その請求書が目に入る。寝る前のことはきれいに忘れている。そこで、腹が立ってすぐに電話する。宅電がかからなければ、携帯にする。「あんたな~、二月一日付けの」が始まる。

五日間続いて、もともとラテン気質のところがある私はきれた。「ちょっと、わかったなら、今すぐその請求書捨てて!」と怒鳴った。返す刀で、請求書発行元の会館にも電話して、父名義の領収書をすぐ送ってもらうよう頼んだ。私の大声に恐れをなしたのか、その日から電話はかかってこなくなった。送られてきた自分宛の領収書で安心したのだろう、顔を合わせてもその話はなくなった。(to be continued)