コロナに関する難問(医療現場)

今回のコロナ問題の時ではないが、以前やはり何かのウイルスが蔓延した時、外国の(多分アメリカだと思う)医療現場で人工呼吸器が足りなくなり、重い決断を迫られた。つまり「誰に人工呼吸器を取り付けるか。そのために、誰の人工呼吸器をはずすか。」以下は、その時決断したことと、その理由である。年齢で基準が決められ、若い人が優先、年をとった方の人工呼吸器からはずす。」何故なら、「年をとっている人は、もう十分この世を楽しんだのだから。」

それを知った牧師は、「私は、もういい。はずしてくれ。」と言って真っ先に死んでいったという。インタヴューで看護士は、「決められたことには、従うしかないけれど、私は呼吸器をはずした方に対して、一生償う気持ちで生きていきます。」と言っていた。

もし私が4、50代だったら、そんなに考えこまなかったかもしれないけれど、もう立派に「十分この世を楽しんだ」として呼吸器をはずされる年なので、色々と考えてしまった。意識がなく、植物人間状態だったら、「尊厳死」として全く問題なし。問題なのは意識があって「まだ死にたくない。」と思っていた場合。若い人のためなら、と喜んではずしてもらう位の大きな人間になれるだろうか。それとも「何で、私が!」とうろたえて、挙句の果ては殺されたと思い、怨念を生じるだろうか。それとも医療側も騒がれるのが煩わしくて、まず意識低下の薬なり注射なりを処方してから呼吸器をはずすのだろうか。う~ん、死ぬ覚悟もなくて、気がついたら死んでましたというのも、非常に問題のような気がする。交通事故と思えばいいのかしら。

美しく咲いて、散っていく花。潔い花の一生。見習わなければ。

また、思い出したのがフリーの山岳救助隊員が主人公の「岳」という漫画。ファンだった。その中で主人公の彼は救助する優先順位を「要救(救助要請)」の早い順番、と決めていた。これを医療現場に当てはめると、病気に後からかかった者は助からない可能性がでてくるが、医療従事者が殺人まがいのことをする必要もなくなり、私も「人口呼吸器がないから、助けられない。」と言われた方が納得できる気がする。

スピリチュアリズムを勉強してきた人間としては、向こうの世界を信じて潔くいきたいものだが、この問題を考えると、納得できる死=良い死、納得できない死=悪い死、ではないかもしれない。イエスも納得して死についたとは思えないし。(イエスをここで出すのは不遜ですが)

皆様はどうお考えになりますか?

 

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