日本は存在できるのか(しら)?

新年早々、暗い話をするな、と怒られそうだけれど、この先日本はどうなってしまうのかと心配になる。土地だけでなく水道法、種苗法と根本的なところで日本が売られていくような気がする。

ヘリコプターから外国人が降りてきて、店の主人に「ここの店の物、全部買います。カード使えますか?」と聞く。使えないと聞いて、ではやめます、と言って去っていく。私には「日本、買います。カード使えますか?」と言っているように聞こえる。買えないで、去っていく外国人にどこかほっとしている。

令和二年が魂の前進の年でありますように

文化的なことでも、日本の文化を大事にしているようには思えない。体育にダンスを取り入れるなら、日本舞踊や能、狂言、歌舞伎の所作を学ぶ選択があってもいいと思う。音楽はもうずっと前から唱歌が少ないか、なくなってしまった。日本の情緒をどう伝えていくのだろうか?そして国語まで、日本の名文を止めて、実務的なものにしていくようだ。

いじめなどの問題は、相手の気持ち、立場が理解できないことから起きていると考えるけれど、今までは自国の文化を通して情緒や、人間らしい感情を育てたのではないのだろうか?

最近、どうしてこういう政策をとるんだろう、と思うことが多く、私なりにそのズレについて考えた。一番大きな原因は「これは問題」と思うところが違うということだ。不思議なのは経済、経済といいながらその経済で苦しんでいる人がどんどん増えていることだ。これからどうやっても人間がAIにおされる時代なんだから、人は人らしい感情や情緒の部分で幸せをつかむ方向に向かった方が得策だと思う、とこれは理性で考えた。

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