「暇」について

「暇」の定義を自分が何かやりたい情熱が失せて、かつ、人から何も求められていない状態、と定義しよう。不思議なもので、忙しい時より何かしら将来や色々なことが不安になる。筒井氏も本に「人は活動的でなくなると日常の瑣末な出来事が気になる。」と書いているので、どうも「暇」は良くない。これが「余暇」というと、ぐっとプラスの響きになるのも面白い。

時々書くけれど、アメリカで非の一点打ち所がない男性が、つまり社会的にも家庭的にもお金、権力全て恵まれていたのにもかかわらず、自殺してしまった方がいた。誰も思いあたる節がなかったようだ。

私はひそかに(彼は暇だったのではないか)と思っている。何も案じることがない状態で却って、生きることの意味を見失ったのではないか、と。

白い百合は父方の祖父が好きでした。

ところで、難民の方の集団自殺とか聞いたことがない。宗教団体の集団自殺は聞いたことがある。戦争状態にある地域の集団自爆も聞かない。そのことを、うちにいらした方に話したら「皆、生きることに大変な所は、生きることに必死で、余分なことは何も取られて、生の本質が見えて、だから大事にするのではないかしら。」とおっしゃった。とても納得した。生きることに必死で「暇」ではないのだ。

自殺したアメリカ人男性のことを考える時、残念に思うのは、もし自分のことだけを考えるのではなく、人のことも考えることができたら、自分が他人のためにどれ程のことができるか気がつき、そうしたら、めちゃくちゃ忙しくなっただろう、ということだ。(彼なりに忙しすぎて自殺した可能性もあり、あくまで私の「暇」だったんだろうという推論にたっての感想)人の立場にたち、行動することによって、人から求められ頼りにされたら、違った種類の生きがいを彼にもたらしたはずだ。

という様なことを暇な時に考えた。あれっ、やっぱり「暇」って必要かしら。

 

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