あるミィーディアムとの出会い(3)

この話は今日で終わりにするが、もう一つ叔父(母の一番下の弟)のことを書いておきたい。ゲイルさんの公演会で、母に関しての情報を沢山頂いた話は(1)で書いたが、その中で、「兄弟の方も一緒にいます。どなたかわかりますか?」という質問があぅた。

勿論、母よりたった八日前に亡くなった叔父に決まっていた。父は人に対して好き嫌いのあった人だったが、この叔父とは肌があったのか、旅行にも一緒に行ったりした。叔父を真ん中に父と母が写っている写真があり、ああ、この順に逝ってしまったね、とお葬式の時にも話したりした。兄弟と言ったので、叔父しか思い浮かばなかったけれど、母に遅れることきっかり二週間で逝った伯母もいたかもしれない。

叔父は外科医をしていて手術がうまかった。私はしつこい足の魚の目を切ってもらったことがあったが、後全く痛まず又、再び魚の目ができることもなかった。それを叔父に言うと、「当たり前だ。切り方が上手いからだ。」と自慢していた。次男が階段から落ちて頭を切った時もさっさと縫ってくれた。母はこの叔父に料理を作ることが楽しみで、家族に作る時より喜々として作った。(ようにみえた。僻みかな。)

前にも書いたが、姉が小さい時、来る人来る人に母はあろう事か「私はこの子(赤ちゃんの私)のほうが可愛いいんです。主人はM(姉)のほうが可愛いんです。」と言い、それは今70近くになる姉の心の、ずっと傷になっていたことを母が亡くなる直前に知った。だからどうしても母が生きているうちに、母と姉を二人きりにして胸の内を吐露してもらいたかった。年内はアメリカから姉は来られなかったので、どうしても年内は生きていて欲しかった。

父と大体同じ経過を辿った母は、12月25日にとうとう点滴が体にはいらなくなった。父はそれから三日して亡くなった。死亡推定日は12月28日と思い、あせって先生に中心静脈に点滴を入れる手術をお願いして、26日に手術。一時持ち直したようにみえた。1月二日に姉が到着。六日の母が亡くなる日まで、二人にする時間もあり、姉は母に色々話すことができた。本当にほっとした。

夜桜。迫力満点でしたがもう今は葉桜です。

ところが、母が亡くなるかもしれないと思った日に叔父が亡くなった。寝付いてはいたけれど、その頃は比較的元気、ということだったのに、28日の夜中に突然逝ってしまった。1月28日は叔母の誕生日なので覚えていてもらいやすい、ということもあったかもしれない。面白いことに叔父の忌明けである49日目が叔父の誕生日でもあった。

でもやっぱり私は、母が本来逝く日であった28日に「いいよ。俺が代わりに逝ってやるよ。Mにちゃんと会え。どうせ大して違いない。」と代わりに逝ってくれた気がしてならない。そういうやさしい所があった。母は母で、6日は大好きだった両親が亡くなった月命日なので満足だったと思う。亡くなる直前二度、はっきり目を開いて上の方を見て「ああっ!」と大きく叫んだ。苦しい感じではなく、何かびっくりしているようだった。姉と私は「お迎えの人が来たね。」と言った。

どうやら母は向こうで色々な人に囲まれて、賑やかに楽しく暮らしているらしい。長い反省が始まるということなので、そうそう騒いでばかりはいられないだろうが、暫くは近くで亡くなった父、叔父、伯母と一緒じゃないかな。私は寒暖差のせいで最近どうにも眠くて、昼間、ちょこちょこ寝ているが、寝ている間は向こうの世界に行くらしいので、しょっちゅう会って色々叱られたり、アドヴァイス受けたりしているのかもしれない。最近、睡眠時間が多く、そのせいで多くの方が心配して下さった、「逝かれて、がっくり症候群」が全くないのはあり難いことです。向こうで両親は生きている、と実感したからかもしれない。

 

 

 

 

 

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