父が亡くなりました(2)

父は病院で特に午前中、私の名前をよく呼んでいたらしい。私の名前はなかなか読めないので、どこの病院でも、「どなたを呼んでいるのかと思ったら、お嬢さん(???)だったのですね。」と言われた。そんなに頼りにされているのかと嬉しい反面、父が人生の晩年になったら、自分の子供のように思えることもあって、それは何だか荷が重いというか「あなたの心にいつもいなくてはいけないのは、母でしょう。」という気持ちもあって複雑だった。

前にも書いたが、一人で暮らしていた時はやはり食事のことと病気になったお尻の世話が心配で、徹底的に世話をした。けれどあまりの惨状に「一人でここにいる。ほっといてくれ。」というのを姉と騙す様にして連れてきて、うちの近くの施設に入ってもらった。偶然、福祉が進んでいる北欧の高齢者の過ごさせ方の本を読む機会があった。そこには「あくまで、本人の思った通りにさせる。たとえ、家で糞まみれになっても、本人が望むならそうさせる」という様なことが書いてあって、連れてきてしまったのは自己満足の偽善だったか、と今でも時々そう思う。

クラスのSさんから頂いたお花を父の遺影に捧げる

救いだったのは、若い看護士さんを好きだったことだ。T病院でもS病院でも大勢の若い看護士さんに世話をして頂いた。S病院で、ある看護士さんから「お父様、お元気ですね。私の体を触りたがって。」と笑いながら言われて、あっと思ったけれど「人恋しいんでしょうね。」と返しておいた。心の中で「あのね、いい加減にしてよ。」と思ったけれど。。。

人は亡くなる時は状況を選ぶと思っている。(選べる範囲で)父は若くて元気のいい看護士さんに声をかけられ、笑顔で返した後、一人で旅立った。多分、私や家族がいたら逝きにくかったのだろう。「人は生きたように死ぬ」と聞いているが、誕生日(10月20日)までは頑張ってね、と言った私の最後の願いをちゃんと聞いて、しかも気功クラスをお休みしなくてもいい日を選んで亡くなった。結構、律儀な人だったんだ、と思えることが嬉しい。

最後に会った時、私にはっきりと「富士見台(練馬区の住んでいたところ)に帰りたい。」と言ったので、「わかった。帰ろうね。」と声をかけた。ず~っと自分が日本にいるか外国にいるかもわからなかった人が、最後の最後になって、自分の状況を理解したのだと思うと、やはり切ない。「どう関わっても必ず悔いは残る。」のが親の介護だというが、「ここまでしかできなかった。ごめんね。でも全ての執着は捨てて、浄化してください。」と祈る日々である。

 

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