ボランティアは難しい

ボランティアと言えば全ていいことの様に思うが、時々疑問に思うことがあった。一つは相手にたいしての押し付けではないか、ということだ。これはもう常識だけれど、海外で支援を計画している地域にお金をつぎ込むだけでは、いつまでたっても状態は変わらず、その地域が自力で生活できるように、援助していく、自分達の力を発揮できるようにすることが援助の第一目的になっている。勿論そのためにはお金も必要であるし、子供の衛生のための医療用品も揃えなければならない。

さて、もう一つの要注意のボランティアの側面は、自己満足や自己承認欲求のために無意識にボランティアを利用してしまうこと。ボランティアグループの中で派閥ができたり、いじめがある話を聞いたことがあるが、これはまさしく自分のためにボランティアをしているからなのだろう。「相手の喜ぶ顔がみたい」というのも自己満足で一種の依存だったりする。時流で高揚した時だけ流行にのってボランティアに行くのは、行かないよりいいと思う。でも本当のボランティアとは、相手を良く見て、本当に必要な時に必要なことをすることなのだろう。

4時頃の我が家の庭の様子。肉眼ではみえなかったいろの付いた光はな~に?

とはいうものの、100%純粋な人はいない。要は、自分の中に本当のボランティアに値する動機があるかないかを内観することによって随分違ってくると思う。表面的にはその時は同じに見えても、その後の生き方が全く違ってくるだろう。

もう一つ、狭い話で寄付について。私は小額をちょこちょこ寄付しているが、寄付もボランティアと一緒で大変難しいと感じている。どういう所にどれだけするか。うちの両親は裕福の部類に入っていたと思うのだが、途中まで一切しなかった。母はある団体に一年に一回会費を送り始めていたけれど、母が倒れると父はやめてしまった。

いつの時代も誰でも将来の不安はある。それは自分だけの縦の世界。自分が生きているこの時代、同世代の人間と横の広がりを意識すると、自然と応援したくなる人達が沢山いる。そういう動機がなければ、全て自分の自由になるお金から寄付していくのは難しいことだろう。不安も人の欲も際限ないから。お金はまさに自分の霊格を問う試金石、ということを肝に銘じて、これから扱うことになるだろう遺産の相続(決して多くはないが)を進めていきたい。

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