父のつぶやき

父は、五月の母の日以来、尿が出なくなって入院している。そのせいで父が管理していた色々なことが全部押し寄せてきて、ただでさえ忙しい生活だったのに事務的なことで忙殺されている。特に豊橋の田舎の山にある、内部を船に模した自分で設計した家(父が何よりも大事にしていた)が50年以上も建ち、これをどうしたものか頭を悩ませている。急な坂の上にあるので、私は何十年も前から「年とってから、この坂は上れない。売って、もっと優雅な生活すればいい。」と言ってきたのにその度に激怒して、「貴子にはあの家は譲らん。」と親戚にも触れ回った。

涼しそうなので、暫く富士山シリーズです。

涼しそうなので、暫く富士山シリーズです。

ある日病院に行った時、積年の恨みとばかり大声で言ってみた。「多米のうちはどうするの?私は豊橋まで行って管理できないよ。固定資産税、ばかにならないんだけど。。。」すると「わしも行きたいんだけど、どうにもならん。だけど行っても、庭の手入れもできないから。わしはもう何の役にもたたん。」

えっ、と思った。思わず「お父様、誰も何の役にもたたないのよ。」と返した。私にしたら、いつもやたら威張っていた父の意外な返事だった。言いながら突然訳のわからない悲しみが襲ってきた。

人は多分、自分は何かの役にたっていると信じて生きているのではないのだろうか?でもそれは本当だろうか?他の生き物から見たら、或いは地球からみたら、ひょっとして迷惑だけな生き物ではないのだろうか?そのことを最近、特に気候で感じる。結局人は、人生を自分なりに精一杯、謙虚に生き抜くしかないのだろうと考えながら、病院から帰ってきた。

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