今日は長いブログ

日曜日にヴェトナムから帰って参りました。一言で言うと、修行の様な旅でした。このことは明日からのブログに載せます。今回は今日お会いしたHさんと「蜘蛛の糸」について素敵なお話ができたので、それを書いておこうと思います。まず、「蜘蛛の糸」は芥川龍之介原作だと思っていましたが、原作はドイツの本だということを教えて頂きました。私にとってこの話は年を取るにつれて意味が変わり、まさに今、世界のみんなが噛み締めればいい話だと思っています。

お釈迦様は何故、せっかく救おうとしたカンダタの上で糸を切ったのか?カンダタの一番の罪は「差別」だと思う。自分と自分と同じように救われたい人を差別し、自分だけ助かろうとした。自分も自分に続く人達も同類だという強い意識があれば、他の者は又地獄に落ちればいいとは思わなかったのではないだろうか。だが「人の手柄で自分もあわよくば助かりたい」と思った他の罪人達も結局は天国へ行けなかったことを考えると、本当の反省なくしては救われないということも示唆しているようにも思う。

バチャン村で絵付けをする人

バチャン村で絵付けをする人

よく考えると、世界のあらゆる問題、紛争、悲惨は全て「差別」が関係している。自分だけが正しい。自分だけが得したい。それが自己完結的なものであればまだしも、人との関係において自分の優位性を主張し始めると「差別化」が生まれる。カンダタは大泥棒ということだけれど、お釈迦様から見れば私達は地球の資源、自然から搾取の限りを尽くしているという点で全員大泥棒。大泥棒ではあるけれども真・善・美を多少なりとも理解できるという点で、まさしくカンダタそのものであろう。

私は気功師であるということとは別にある精神学を学んでいて、そこに「類魂の法則」というのがある。笹川流に言うと、「人類みな兄弟」という法則である。こういってしまうと分かったような気になるが、実生活に当てはめると本当の理解はなかなか難しい。でも「蜘蛛の糸」に当てはめると意外とわかりやすい。

既に自然から搾取するだけではなく、大気を、海を、大地を汚してしまった私達はカンダタ以上に罪は重い。とすると「よりよく」するための手段は二つ。一つは同じ泥棒同志、手を取り合って少しでも地獄の中を住みやすい場所にするか、或いは一人一人が心から反省してもう一度「蜘蛛の糸」が降りてくるのを待つのか。「蜘蛛の糸」から深い話に発展して、とても有意義な時間を過ごすことができた。

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