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職業に貴賎あり?

あまり、政治に口出さないようにしてきたが、最近のことで(もう去年のことだけれど、色々あって遅くなった。)えっ?と思った事があったので書いておこう。それは菅官房長官が「出会い系バーに行っていた人間の言うことなんか信用できない。」というようなことを、加計学園問題に一石を投じた元事務次官の前川氏に対して言った言葉だ。私的には前川氏の言うことが、最近の動向を見ても正しいのではないかと思うが、それはさておき、何故、「出会い系バー」に行くことが信用できない人間と断定できるのか、と考えてしまった。

例えば、違法行為がはっきりしているバーに足を運んだなら、その言葉も納得できる。でもそうではなく、堂々とそのバーは営業している。これは菅官房長官の職業に対する差別意識、もしくはその職業につく女性にたいする偏見が出てしまったのではないかと感じた。シングル・マザーでどうしても経済的に困る人には、子供に手がかからない時間帯で、手っ取り早くお金を稼げる夜の職業はあり難いはずだ。違法でないなら、「職業に貴賎なし」の観点が欠けている。政治家が言ってよい言葉だとは思えない。もし、個人的にそういう所がお嫌いなら、日本に働きに来た外人女性、シングル・マザー、が困らない仕事場所や環境を提供する努力をする事が政治家として筋だと思う。

その口でカジノ法案は通すところを見ると、カジノはオメガネにかなっていたようだ。カジノって賭博ですよね。私もラスベガスでしたことはあるけれど、雰囲気が異世界で「これはのまれると、大変なことになる。」と面白い反面、怖かった。日本に作った後で、本当の意味で責任持てるのかしら。お金を稼ぐことだけを考えていると、とんでもないことになると思う。

春爛漫、花粉症がなければ、素晴らしい季節。

先の話に戻ると、この発言に対してマスコミも何のツッコミもなく通り過ぎてしまった。レスリングにおけるパワハラ、政治家のセクハラ発言、日本の女性の地位が先進国で非常に低いのも頷けるというものだ。けれど、いい地位を与えられて半分男性化し、同姓に対して上から目線の、ある大学のお偉い女性も見たくなかった。日本の女性にも自立心の欠如や依存体質など、直すべき点はたくさんあるけれど、(勿論私も)島国日本の中年以上の男性の(みんなとは言わない)女性観を変えるのは、トランプ氏が作りたい壁よりはるかに高い障壁があるようだ。

あるミィーディアムとの出会い(3)

この話は今日で終わりにするが、もう一つ叔父(母の一番下の弟)のことを書いておきたい。ゲイルさんの公演会で、母に関しての情報を沢山頂いた話は(1)で書いたが、その中で、「兄弟の方も一緒にいます。どなたかわかりますか?」という質問があぅた。

勿論、母よりたった八日前に亡くなった叔父に決まっていた。父は人に対して好き嫌いのあった人だったが、この叔父とは肌があったのか、旅行にも一緒に行ったりした。叔父を真ん中に父と母が写っている写真があり、ああ、この順に逝ってしまったね、とお葬式の時にも話したりした。兄弟と言ったので、叔父しか思い浮かばなかったけれど、母に遅れることきっかり二週間で逝った伯母もいたかもしれない。

叔父は外科医をしていて手術がうまかった。私はしつこい足の魚の目を切ってもらったことがあったが、後全く痛まず又、再び魚の目ができることもなかった。それを叔父に言うと、「当たり前だ。切り方が上手いからだ。」と自慢していた。次男が階段から落ちて頭を切った時もさっさと縫ってくれた。母はこの叔父に料理を作ることが楽しみで、家族に作る時より喜々として作った。(ようにみえた。僻みかな。)

前にも書いたが、姉が小さい時、来る人来る人に母はあろう事か「私はこの子(赤ちゃんの私)のほうが可愛いいんです。主人はM(姉)のほうが可愛いんです。」と言い、それは今70近くになる姉の心の、ずっと傷になっていたことを母が亡くなる直前に知った。だからどうしても母が生きているうちに、母と姉を二人きりにして胸の内を吐露してもらいたかった。年内はアメリカから姉は来られなかったので、どうしても年内は生きていて欲しかった。

父と大体同じ経過を辿った母は、12月25日にとうとう点滴が体にはいらなくなった。父はそれから三日して亡くなった。死亡推定日は12月28日と思い、あせって先生に中心静脈に点滴を入れる手術をお願いして、26日に手術。一時持ち直したようにみえた。1月二日に姉が到着。六日の母が亡くなる日まで、二人にする時間もあり、姉は母に色々話すことができた。本当にほっとした。

夜桜。迫力満点でしたがもう今は葉桜です。

ところが、母が亡くなるかもしれないと思った日に叔父が亡くなった。寝付いてはいたけれど、その頃は比較的元気、ということだったのに、28日の夜中に突然逝ってしまった。1月28日は叔母の誕生日なので覚えていてもらいやすい、ということもあったかもしれない。面白いことに叔父の忌明けである49日目が叔父の誕生日でもあった。

でもやっぱり私は、母が本来逝く日であった28日に「いいよ。俺が代わりに逝ってやるよ。Mにちゃんと会え。どうせ大して違いない。」と代わりに逝ってくれた気がしてならない。そういうやさしい所があった。母は母で、6日は大好きだった両親が亡くなった月命日なので満足だったと思う。亡くなる直前二度、はっきり目を開いて上の方を見て「ああっ!」と大きく叫んだ。苦しい感じではなく、何かびっくりしているようだった。姉と私は「お迎えの人が来たね。」と言った。

どうやら母は向こうで色々な人に囲まれて、賑やかに楽しく暮らしているらしい。長い反省が始まるということなので、そうそう騒いでばかりはいられないだろうが、暫くは近くで亡くなった父、叔父、伯母と一緒じゃないかな。私は寒暖差のせいで最近どうにも眠くて、昼間、ちょこちょこ寝ているが、寝ている間は向こうの世界に行くらしいので、しょっちゅう会って色々叱られたり、アドヴァイス受けたりしているのかもしれない。最近、睡眠時間が多く、そのせいで多くの方が心配して下さった、「逝かれて、がっくり症候群」が全くないのはあり難いことです。向こうで両親は生きている、と実感したからかもしれない。

 

 

 

 

 

あるミィーディアムとの出会い(2)

少し時間が経ってしまったが、この前の続きは次の日の3月26日、月曜日のこと。主催したWさんのご好意で、個人的にゲイルさんとお会いして相談できることになった。(これをシッテイングと言う。イギリス、アーサー・フィンドレ・カレッジで覚えた言葉だが、ネットにも「霊視」とのっていた。)何を相談したかは、プライヴェイトのことなので、ここには書かないが、とても面白いことがあった。

Wさんのアドヴァイスで、両親の写真を持っていった。持っていった方が、通信しやすいのではないかということだった。前日に母の写真のことを言われたので、「遺影として選んだのはこの写真です。」とお見せしたいという気持ちもあった。

始めてすぐ、ゲイルさんが「お父様が来ています。」とおっしゃったきり、暫く目を丸くして黙ってしまわれた。私も黙っていると、少し困惑しながら「あの、すぐ、お母様もいらして二人でここで議論なさっています。」と言われたので、思わず大きな声で笑ってしまった。二人は、特に母が元気な時は価値観の違いから喧嘩が絶えず、それを新井薬師の御前様の前でも平気で二人で大声で言い合い、私は肩身が狭かった、という過去があった。どうも私が持ち込んだ相談で二人の意見が違うらしい。これが両親である証明でなくて、なんなんだという様子だった。

そのことについては、どうも父が折れて、というか納得して母がメッセージを伝えてくれた。それとは別に母は「お父様はこちらに来て短い間に随分変わった。あなたに見せてあげたい。」と言ってくれた。父は頭はすごくいいけれど、利己主義で頑固、ケチな面があり、母が倒れた後世話をするのに少し苦労した。昔しか知らない姉は「そんなとこだけではない。やさしい面もあった。」と言っていたが、父は、私を母の代わりとみなしたのか、かなり我がままを言った。するとゲイルさんが父が私にapologizeしている、(謝っている)と言ってくれて、その言葉を聞いた途端、ああ、美輪さんが「人の個性は死んでも変わらない。馬鹿は死んでも馬鹿のままよ。」という名言を吐かれたが、父は変わってくれたんだ、湯灌の時、「ご苦労様でした。しっかり休んで気がついたら、今までのこと、よく反省して、あの世でもご活躍ください。」という言葉が届いたのだろうと、全ての嫌な思い出は雲散霧消してしまった。そしてあの世に逝っても親というものはやはり、子供のことが気になるのだ、しっかり生きなくてはいけない、という思いを新たにした。

今年の桜は綺麗でした。お父様、お母様もみましたか?

次の日、早速アメリカの姉にこのことを報告した。すると「や~ね~、あちらの世界に逝っても二人でそんなことしてなきゃいけないんだ。」と笑っていた。そして、私が相談に入ったらすぐ、ドアが風もないのに二度すごい音が鳴り、終わる時も同じように音が二度して、それは「冨田さんの時が一番大きかったけれど、他の方も大体同じようで、ああ、今誰か入いった、とか出て行ったとか話していた。」と言われた話もして、「私の想像だけれど、二人は新入りなので、まだドアの通り抜け方に慣れてないんじゃないかしら。だから他の人より大きな音がしたのよ。」と姉に言ったら「それは絶対そうよ。」と言ってまた笑い転げていた。こんな会話ができるだけでも、姉がいてしみじみ良かったと思った。

 

 

 

あるミィーディアムとの出会い(1)

以前、クラスにいたWさんは、今、日本科学心霊協会という所にいる。ある日、電話を下さってイギリスから、霊媒師を目指す人を育てていた程の女性の先生が講演にみえるけど、来ない?とお誘いくださった。(霊媒師とは、亡くなってあちらの世界に逝った方と通信して私達にその言葉を伝えることを仕事にしている方達を言います。)良く誘ってくださるのだけれど、忙しくてなかなかいけなかったし、最近両親もあちらの世界に逝ったので、ひょっとして何か言ってくれるかしら、という期待もあった。

その霊媒師はイギリス人でGail Moffat さんという方だ。とても優しい感じで、わかりやすい英語で話してくださった。後でやり方を変えたが、始めはこんな人が来ていて、こんな風に言っているけれど、心当たりの方いませんか?と聞いて手を上げた人に、本当にその人の関係の人かどうか、詳しく聞いて、その人に間違いがなければメッセージなどを伝えていく。

後半、「その人は亡くなる前何年か口をきけませんでした。」と言ったので、はっとして母ではないかと思った。6年前脳溢血で倒れた時、脳の中の言語野という所にダメッジを受け、話せなくなっていたから。しかし「その人は『乳がんで亡くなった。』と言ってます。」と言ったので、あっ、違うと思った。他に当てはまる方がいて、ゲイルさんと話していたが、なくなった原因以外全て私に当てはまったので、聞いてみた。

すると「少し二人がシンクロしてしまいましたが、確かにあなたにも来ているので言っていることをお伝えします。」とおっしゃって下さり、以下のことを伝えてくれた。○喉が悪く、それを医師に上手く伝えられなくて、それが悩みだった。(母は倒れる前から喉、気管が弱かった)○良い写真を選んでくれた(死に顔がとても綺麗だったので、若い時の綺麗に写っている遺影を違和感がないと思い、皆で選んだ)○皆で思い出話をしてくれて、その内の一人がした話で私が『お母様はこんな人まで世話してたんだ、と驚いた。(全くこの通りで、親戚のY君の下宿のお世話をしたことは、その時まで知らなかった)○母にと言って持ってきてくれた物を他の人に渡した(お見舞いに来て下さった方は大抵お菓子を下さったが、母が食べられないものが多く、勿論ご家族の方にでも、という気持ちで持って来て下さったのだけれど、施設の方がとても良くしてくれたので、施設に置いてくることもあった)○何度も何度も会いにきてくれた(最後の三年間はうちの近くだったので、せっせと通うことができた)○自分は料理が得意だった(これも周知のこと)○オシャレな人で、私に「あなたも少しは身なりに構いなさい。」と言っています、とゲイルさん(これを聞いて母だという確信をもった。若い時から全く同じ言葉を何度も言われた。倒れてからも目でいつも服装をチェックされた)○私が良く皆のお世話をして、向こうの世界で母はこのことを誇りに思っている(これを最後に言ってくれた。イギリスで別の方にシッティングした時も同じことを(故)叔父から言われた)

青空に桜が良く映えて、今年は桜がとても綺麗だった

霊魂は向こうの世界で生きてますよ、ということを証明することが、こういう会の目的でこちらから質問することはないが、これだけ、私しか知らないことを次々と言われて母であること、母は向こうの世界で健在だということがしっかりわかり、色々な疲れは吹き飛ぶ思いだった。「天は見てござる」というのは、ただの諺ではなく、事実、と確信もした。

今、この文章を書いていたら、いきなりお線香のいい匂いを強く感じ、ああ、これが所謂「芳香現象」か、書いていいかなと少し迷っていたけれど、いいのよ、と言ってくれたと安心しました。

貴重な経験、霊界とゲイルさんとYさんに心からお礼申し上げます。お母様、有難う。これからも、そちらに行くまで頑張りますね。