月別アーカイブ: 2018年2月

感謝!!!

両親の最晩年、力になって下さったのは、両親の一番近くいた人達でした。父の場合、昨年の二月まで練馬の家で一人で暮らしたので、ケアマネさん、ヘルパーさん、介護施設のトップの方、リハビリで知り合った面倒見のいい男性、お弁当を毎日届けながら様子を見てくださったワタミの方。実家まではここから車でも電車でも一時間半、買い物したり、環八が混んでいると二時間かかるので、何度家に電話かけても出ない時や、どうも調子の悪そうな時はお願いして、よく見に行って頂きました。

母は国立で三年以上お世話になった介護施設、損保ラヴィーレで、多分近年になく幸せな生活を送ったと思います。三度三度のおいしい食事、お気に入りの男性介護士、母を慕ってくれた女性の介護士、しっかりと組織を管理し、母を見守り、いつも病院に付き添って励ましてくれて、本当に頼りにさせて頂いた女性の施設長。そして二人共、最後は武蔵小金井の桜町病院で温かい先生と看護士さん達にお世話していただいて安らかに旅立ちました。

勿論、親戚や友達もとても心配してくれて、理事長や病院長の身でありながら豊橋からお見舞いに来てくれた従姉妹や従兄弟、二人入院して(最初は別の病院だったので)あっちとこっちで困っていたら、「今日は私が伯母ちゃまの所に行くから」と良く申し出てくれて助けてくれた従姉妹、何を優先しても子供も連れて見舞いに来てくれたお嫁さん、母の延命を一生懸命祈ってくれた叔母、わざわざクラスが終わってからお見舞いしてくれた友達、数え上げれば感謝する方達はきりがありません。大勢のお見舞いの方達を見て、こんなに大切に思ってくれているんだと本当に嬉しくなりました。

見慣れた立川の街。「いつの日かこの世に別れるその日、遥かに見下ろす立川の赤い橋」

今回特に感じたのは、血が繫がっていなくて家族でも親戚でもなく、あくまで仕事の中でのお付き合いであるはずなのですが、毎日、施設ではすぐ側にいてやさしくして下さったり、病院ではもう何も病人にすることがなくなっても、温かい眼差しを送ってくださることが、どんなに病人や家族にとって力になり励まされ癒されるか、ということでした。

正直、冷たいな感じ悪いな、と思う他の病院の階もありました。そんな時は、家にいてもいつも心配でした。二人の最晩年、周りにいた方達が心ある方達で本当に幸せでした。母の四十九日も済ませ、思い返せば私だけではどうにもならなかった、と思うことばかりです。

この場を借りて、心からお礼申し上げます。明日、三月からは気持ち新たに、また、気功師とピアノ、スピリチュアリズムの勉強に全力を注いでいきます。

 

母のこと -不思議な夢ー

母が倒れたのは2012年、3月31日。その直前の2012年二月のこと。両親をどこかに連れていこうかという話になり、ふと、母が「一度は海ホタルに行きたい。」と言っていたのを思い出した。丁度次男が就職して富津にいたこともあり、他の所を考えていたのだけれど「いつ、行けなくなるかもしれないから。」と言って海ほたるを通って次男の所に寄り、御宿に行くコースを選んだ。これが母を連れて行った最後の旅行になった。今考えると、海ほたるに連れていっておいて良かったと思う。

母が倒れてから暫くして、奇妙な夢を見た。子引き出しが三つついた高さ25cmくらいの小物入れがある。その一番上の引き出しが開いている。次の引き出しも開いている。ところが一番下の引き出しは閉まったまま、という夢である。夢の中で直感的にああ、母は二回程入院して、二回は良くなるけれど三回目に入院したら、それが最後になるな、と思った。

以前撮った不思議な写真。今見ると、右に卒塔婆が三本たっているように見える。もう一本あれば、心霊写真?

母は施設で結構おいしい食事と、やさしいスタッフに囲まれて、また頻繁に姿を現す娘(=私)にご機嫌に過ごしていたけれど、おととしに一度と去年の春に入院。この時は三週間ほどいて、8月の始めに退院して夏祭りにも参加できた。でもすぐ熱が出て入院になった。これが三度目。この頃、父がほとんど食事をとらなくなった。すると母も、病院で食事をほとんどとらず、寝てばかりいるようになった。父は食べたいのだけれど無理、という感じだったが、母は「食べない。」と決めたように、頑なに食事を手で拒否した。その感じから父が食べなくなったのを察知したのか、それともお気に入りの男性介護士にもう会えないとわかって、生きることをやめよう、と決意したのかと感じた。

夢のことがあったので、立川病院から桜町病院に移った時、早い段階で個室に入れてもらい、好きなクラシックを存分に聞いてもらった。私を認めると、うんうんと頷いて、わかってるよという合図を送ってくれた。今、母がいなくて寂しくない、というと嘘になるが、そのうち私もいくからと思うと、悲壮感はない。これから私は30年も生きれるかな。どちらにしても力一杯、思い残すことなく生きていこうと改めて覚悟している。

 

沢山の見送り

このブログを書き始めてから初めて、今年の一月は一回も書けなかった。何故か?母が1月6日に亡くなり、8日お通夜、9日お葬式を執り行い、少し無理かなと思いながら、14日から、大阪、豊橋へ行き、講座を受けたり、49日の法要の用意をしたり、市役所、弁護士の所に行き色々な書類をとり、不動産関係の用事をこなし、16日やっと帰ってきた。

疲れたな~、21日は気功クラスがあるから今週は少し休まなければと思いつつ、こちらでもすることが山ほどあり、市役所、年金事務所、郵便局に行き、書類の取り寄せ、提出を繰り返していた。と、20日に叔母から電話があった。なんと母の異母兄の奥様が亡くなったという知らせだった。最近はお会いしたことがなかったが、娘さんやお嫁さんが名古屋から母の告別式に駆けつけてくださっていた。なつかしさもあり行こうと決めた。名古屋にクラスが終わってから行き、7時からのお通夜に間に合い、次の日の告別式にも参列でき、22日、国立に帰ったら大雪が積もっていた。国立駅でタクシーを待つこと40分。名古屋から30分の所の会場を3時に出て、うちに着いたら9時半過ぎていた。途中、中央線が遅れたこともあり、長旅になった。

両親もよくいたリヴィング。

11月3日に父が亡くなり、12月28日は叔父が、1月6日に母が、1月20日に伯母が向こうの世界に逝ってしまった。何だか、この世界が面白くなくなって、皆で、「もう、行こ、行こ」と手に手を取り合って逝ってしまった様な感じを受ける。向こうの世界は賑やかで他のしそうだなと羨ましくもあるが、とりあえず私は正直疲れた。

気功師が疲れたと言ってはいけない、という意見もあるが、ちゃんと「医者の不養生」という言葉もある。親が亡くなった時くらい、大声で言いたい。「疲れた。」悲しさは?と言われそうだが、どちらの時も「もう、駄目だ。」と思った日に思い切り泣いた。後は何とか世間体を気にした二人のために、お葬式の体裁を整えるのに必死だった。介護に関わってから亡くなるまで、色々感じたこと、わかったこと少しずつ書いていきます。