月別アーカイブ: 2017年11月

父が亡くなりました(3)

お葬式は何度も打ち合わせをしたり、亡くなってから中三日あったこともあって、思った以上にきちんとできた。思いがけなく、父を直接知らなくて私だけの関係の方も四人も来て下さった。会社関係の方もお一人だけに伝えておいたら、会社を辞めてから30年以上も経つのに、四人の方が駆けつけてくださった。時々父が訪ねた母の施設長や自身がお世話になった施設長、親戚も豊橋から新幹線と中央線を乗り継いで来てくださった。本当に有難かった。

国立に住んだこともなく、会社を60台前半で辞めてから特に何をするわけでもなく、豊橋の家を管理することを生きがいとして30年以上も過ごしたので、(会社を立ち上げ本も出したが、うまくいかなかった)また、年が年だけに友達は皆天国にいて、こじんまりとしたお葬式になるだろう、と思っていたけれど、皆様の温かいお気持ちで沢山のお花、生花、供え物に囲まれて、父にしては華やかに旅立つことができた。

秋に生まれ、秋に逝った父。今年は紅葉、綺麗ですよ。

国立のドリーミーという所で行なったのだが、立川の施設と比べると小さな二階建てのホールで、そのためか一日一つしかお通夜とお葬式は行なわず、落ち着いて送ることができた。私は五月に参列したお葬式では一度に四つしていて、お手洗いから帰ってきて会場に入ったが何だか雰囲気が違うのであれっ、と思って写真を見ると全く違う方で、慌ててそこを出たことがある。隣りの会場に入ってしまったのだ。私がその時参列した方は女医さんで、最後の最後まで仕事をしてらしたので人が好きだったから、こういう所でお葬式になるんだろう、と思ったのを覚えている。

始めは立川の大きなホールですることが決まっていたのに、日程上、国立のホールになった。今考えると、父は絶対その方が良かったのだろう。最後の五年は一人で暮らし、一人で逝った人だから。自分で選んだと、そう思っている。

しかし父に言いたい。「最後まで皆さんのご好意を沢山受けて、幸せでしたね。でも、世界には、死んでも手厚く葬られないで土に返る方もいます。それどころか、戦争などで、亡くなったことさえも知られない方もいます。そういう方にも思いを馳せて、そちらの世界では生きてください。」と。亡くなってからも口うるさい、可愛くない娘です。

父が亡くなりました(2)

父は病院で特に午前中、私の名前をよく呼んでいたらしい。私の名前はなかなか読めないので、どこの病院でも、「どなたを呼んでいるのかと思ったら、お嬢さん(???)だったのですね。」と言われた。そんなに頼りにされているのかと嬉しい反面、父が人生の晩年になったら、自分の子供のように思えることもあって、それは何だか荷が重いというか「あなたの心にいつもいなくてはいけないのは、母でしょう。」という気持ちもあって複雑だった。

前にも書いたが、一人で暮らしていた時はやはり食事のことと病気になったお尻の世話が心配で、徹底的に世話をした。けれどあまりの惨状に「一人でここにいる。ほっといてくれ。」というのを姉と騙す様にして連れてきて、うちの近くの施設に入ってもらった。偶然、福祉が進んでいる北欧の高齢者の過ごさせ方の本を読む機会があった。そこには「あくまで、本人の思った通りにさせる。たとえ、家で糞まみれになっても、本人が望むならそうさせる」という様なことが書いてあって、連れてきてしまったのは自己満足の偽善だったか、と今でも時々そう思う。

クラスのSさんから頂いたお花を父の遺影に捧げる

救いだったのは、若い看護士さんを好きだったことだ。T病院でもS病院でも大勢の若い看護士さんに世話をして頂いた。S病院で、ある看護士さんから「お父様、お元気ですね。私の体を触りたがって。」と笑いながら言われて、あっと思ったけれど「人恋しいんでしょうね。」と返しておいた。心の中で「あのね、いい加減にしてよ。」と思ったけれど。。。

人は亡くなる時は状況を選ぶと思っている。(選べる範囲で)父は若くて元気のいい看護士さんに声をかけられ、笑顔で返した後、一人で旅立った。多分、私や家族がいたら逝きにくかったのだろう。「人は生きたように死ぬ」と聞いているが、誕生日(10月20日)までは頑張ってね、と言った私の最後の願いをちゃんと聞いて、しかも気功クラスをお休みしなくてもいい日を選んで亡くなった。結構、律儀な人だったんだ、と思えることが嬉しい。

最後に会った時、私にはっきりと「富士見台(練馬区の住んでいたところ)に帰りたい。」と言ったので、「わかった。帰ろうね。」と声をかけた。ず~っと自分が日本にいるか外国にいるかもわからなかった人が、最後の最後になって、自分の状況を理解したのだと思うと、やはり切ない。「どう関わっても必ず悔いは残る。」のが親の介護だというが、「ここまでしかできなかった。ごめんね。でも全ての執着は捨てて、浄化してください。」と祈る日々である。

 

父が亡くなりました(一)

父が11月3日に亡くなりました。誰もいない時に逝ってしまったので、二日だったかもしれません。以前から父のことを考えたとき、23という数字が浮かび、23日と思っていて、今回は違った、何だったんだろうと少し気にしていたら、従姉妹が「二日か三日の23ではないの?」と言ってくれて、そうだったのかなと思いました。

なくなる前、不思議なことが沢山あって、アメリカから帰ってきた姉がいる時、はっきりと「敏江(亡くなった妹)が迎えに来ている。」と言って、私を見て「敏江だな。」と言ったり、誰もいない部屋の隅を指さして、「背の高い女の人がいる。」とつぶやいたり、姉とびっくりして顔を見合わせました。「知らないうちに誰か入ってきて、しらないうちに出て行く。」とも言いました。

兄弟と争続した一人が妹で、その方は後で改名したので、敏江という名前は改名前の名前のようです。私にとっては叔母ですが、その方の亡くなったことを父には知らせてくれないほど、(私には喪中の葉書で知らせてきました。)冷え込んだ仲になってしまいましたが、ああ、向こうで「争いはばからしい」と思い直してくれたんだ、と嬉しく思いました。

助け合えば、心強く、どんな人でも得意、不得意あるので仲がよければ補い合っていけるのに争うと、それもたいてい多くもない財産、土地のことで、従姉妹との仲は断絶するし、本当につまらないことと思ってました。

亡くなる五日前には「ひろしが来ている」と言いました。この方も争った弟です。ああ、向こうでやっと大円団と安心したら、その後まもなく穏やかに息をひきとりました。

父も散歩した道