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創造はやさしく、想像は難しい?

最近、題に書いたことをよく思う。「壁」を創造するのは、権力さえあれば可能かもしれない。でも、そのように差別された国や、罪なき人々のことを正しく想像することは難しい。多分人は、真実をみつめようと努力することより、自分の都合のいいように物事を創造することの方が容易なのだろう。

こんな近くから家から富士山を見える人達はなんて幸せなんだろう、と思う。

こんな近くから家から富士山を見える人達はなんて幸せなんだろう、と思う。

それは学校でよくやった「伝言ゲーム」でも明らかだ。たった10人程度の人数で、始めの人が言ったことが最後の人に正確に伝わらない。意図的でなくても、人のcommunicationはこの様に不確かなのだ。どこかに、自分の創造が入ってしまう。時々太極拳とかヨガで首や膝を痛めた肩がいらっしゃることがある。健康になるためのものなのに不思議に思っていたけれど、元々修行的なものが変化して健康体操的なものになったのだろう。本家は中国やインドなのだから、日本に入ってきた時点で大分変わってしまっている可能性がある。人に教えようという方は歴史や、本来の姿を知っておいた方がいい。これは気功を教えている自分も注意しなければいけないことである。

先日気功クラスで迂闊なことに、とても大事なことを伝えていなかったことに気がついた。私の気功は修験道者系で、「気」は、大峯山の麓の神社から頂いてきた。役小角が気功をしていたかどうか知らないが、少なくとも気功の基を実践していたと思う。それを引き継ぎながら、幾つかの手法を自分で創造した。クラスでも、これは習った気功法、これは私が創造した手法とはっきり分けて教えているが、これは自分で「創造」したというよりも上から教えて頂いたと感じている。

少し話しがそれてしまったが、自分が経験していないことを正しく想像することは、本当に難しい。震災に理不尽に被災された方達、例えば原発の恐ろしさをわかっていて、反対していた方達もいるだろう。やっぱりね、言わんこっちゃない、と思いながら亡くなった方もいらっしゃるだろう。福島からの転校生にイジメの記事を見る度に、人の想像力のなさに絶望的な気分になる。人はここまで、正しい想像力を働かすことができないということに、自戒をこめて、自覚しなければいけないと思う。

年をとるということー父の話(2)

父も母もとても頑固だった。私が社会人になったら、それは余計ひどくなった。外資系の損保会社に就職し、世の中のお金の動きに少し敏感になり、そんな時バブルを迎えた。「今が売り時。」私は父が所有する不動産についてかなり頑張った。すると父は激怒した。親戚中に悪口を言い、「あの子にだけは、あのうちはやらん。」と宣言した。父の設計した立派なうちだったが、結局50年以上誰も住まず、家が哀れだった。そこに法事の後、久し振りなので、父がさぞ喜ぶだろうと思って子供達と連れて行った。すると開口一番「なんでこんな所に来た?帰ろう、帰ろう。」だった。

途中から、父母はお嬢ちゃん、お坊ちゃまの組み合わせだから、私の基準で何か言ってもしょうがない、と思うようになった。私が学んでいるスピリチュアリズムでも、「親だと思うから腹が立つ。それは一種の依存です。」と言われ、余程困ること以外は自分とは関わりのないこと、と思うようにした。そうこうするうちに親子の立場が逆転した。父の肛門が緩くなり、漏れてもほっておくので、匂いに敏感な私はすぐわかり父の大便と格闘することも何度か経験した。

白い百合は祖父が好きな花だった。

白い百合は祖父が好きな花だった。

赤ちゃんと一緒でお尻を拭いている最中に刺激されて、溜まっていた便がどんどん出てくる。トレペをかなり使ってから、気がついてトイレに座ってもらった。その間、自分でも拭こうとするので惨状はひどくなる。ある時、肛門から7cm程垂れていたものを見つけた。取ろうとしてもなかなかとれない。あれっ、と思ったら腸だった。子供で経験があったので、押し戻したら2cm程残ったけれど入っていった。(お医者さんに相談して手術決定)悪臭と戦いながら、いつも思うことは「男の子三人育ててよかった。」ということだ。扱いなれていたので、抵抗がないことはないが、何を見ても(笑)卒倒することはない。

姉がアメリカに行ってしまったから一人娘みたいなもので、私の両親だけまだ残っている。傍から見たら損な役回りかもしれない。まだ、介護した人が多く遺産を頂けるという法律もない。でもどこかで、近くで親の世話をできるのは私が幸せな証拠と思っている。助けてくれる方が沢山いるので、燃え尽きる心配もない。口が達者な母は、脳の言語野がやられたので不満も言わない。(浪人している時は母の言葉でノイローゼになりそうになった)今、施設でにこにこしている母を見ると本当に嬉しくなる。

父に対しては複雑だったけれど、最近あることに気がついた。人に対して、親切にするとか思いやりをもつとかはほとんどない父で冷たい人だなと感じていたけれど、自分に優しくしてくれなくても文句は言わないし、自分の状態に不満も口にしない。もう少しこうしてくれればというのもあまりない。母とはいつも喧嘩していたけれど。。。やさしいヘルパーさんやケアマネさんの支えも大きいのだろうけれど、その点はとても助かる。お坊ちゃまなので、人に大便の世話であろうと何であろうと、何かしてもらうのに、たいして遠慮がないのも私にとってはやりやすい。これをいちいち、恥ずかしがったり、嘆いたりされたら却ってやってられないだろう。

そして、あまり抵抗なく父に関わっていられるのは、近い将来の自分の姿をそこに見ているからだと思う。ああ、年をとったら、とてつもなく頑固になって、色々なこと、ついには下のことまでできなくなって、朝も昼もわからなくなり、食事を作るのはおろか冷蔵庫から食べ物を取り出すのもできなくなるんだ、と学ばせてもらっている。父以外の全員一致の意見で、今月近くの素敵な施設に入ることになった。体験の時は喜んで帰るのを嫌がったくらいなのに、おとつい施設長と行ったら全く忘れていて、「この家を離れるわけにはいかん。ほっといてくれ。」と威張るので、「ほっておいたら、何も食べないから干物になるよ。」と言ってきた。

 

年をとるということー父の話

よく母の話はしてきたが、今日は父のことを書こうと思う。所謂、勉強の頭はすごく良くて、エリートコースを歩んできた。母が倒れて施設に入っても、人付き合いが嫌いなのと家フェチなところがあり、90を過ぎても一人で暮らし、とうとう95になった。すごく良いヘルパーさんやケアマネさんに恵まれて、又ワタミの宅配を利用していて必ず声をかけてくれるので、私は月二回ほど顔を出すだけで何とかまわっていた。

部屋から見る冬の庭

部屋から見る冬の庭

ところが、去年あたりから少しおかしくなってきた。「来い。話がある。」と言うので行くと「あんた、何しにきた?」と言う。決して近い距離ではないので、がっくりくる。今年になるともっとひどくなり、昼に行っても雨戸は閉めっ放しで、大声で起こすと「なんで明け方に来た?」と言われる。

法事の時の引き物を始め、色々なものを豊橋の会館に頼む時、「費用は父が出すので、父の名で。」と言ったのだが「いえ、頼んだ方のお名前で。」と言われ自分の名前を書いたのだが、これが騒動の元になった。会館使用料や引き物やお食事の合計された請求書が父に届いた日から、(その日までに既に支払って、父にも報告をしていたのだが)20万円以上の買い物を私がして、その請求書が自分にきたと思いこんだ。毎日電話が二回ずつ入り、「あんたな~、二月一日付けで請求書が来ているけど」と始まる。いちから説明して、「ほ~、そうか。」で一度きる。そして寝る。起きると又その請求書が目に入る。寝る前のことはきれいに忘れている。そこで、腹が立ってすぐに電話する。宅電がかからなければ、携帯にする。「あんたな~、二月一日付けの」が始まる。

五日間続いて、もともとラテン気質のところがある私はきれた。「ちょっと、わかったなら、今すぐその請求書捨てて!」と怒鳴った。返す刀で、請求書発行元の会館にも電話して、父名義の領収書をすぐ送ってもらうよう頼んだ。私の大声に恐れをなしたのか、その日から電話はかかってこなくなった。送られてきた自分宛の領収書で安心したのだろう、顔を合わせてもその話はなくなった。(to be continued)