月別アーカイブ: 2013年9月

北京の大気

9月29日の朝日新聞、朝刊の「北京と四日市 秋空を仰いで」を読むと、大気汚染についての中国と日本の見解の相違が良くわかる。この秋も北京の空はさえない。日本は大気汚染という公害を克服した手本があるとして、中国に日本の公害技術を学んで欲しい。また中国の汚染が日本まで及んでいるという、被害者意識もある。

ところが中国は「日本は中国に工場進出して排出物を中国にまき散らし、収益だけちゃっかりもっていく。日本も汚染の発生源だ。」という認識らしい。また公害時代の日本も、今の中国と似たような心境で、80年代に日本の汚れた大気が北米大陸まで飛来しているということを知っている人さえあまりいなかった。

花のように仲良く咲くのは人間には難しいのかな。

花のように仲良く咲くのは、人間には難しいのかな。

人間の心理について色々勉強になることはあるが、それはさておき、大気汚染について日本がすべきことは、中国に大気汚染がどれ程健康に影響するかを丁寧に説明すべきだろう。このままいくと北京に住む人の寿命が大分縮むということも言うべきだと思う。そして日本は加害者でもあり被害者でもある立場から(中国にしても同じだろうが)公害技術を上から目線ではなく(この態度が中国が嫌う国だということはわかっているはず)同志としてすぐ適用すべきだろう。

これは「国の体面」を前面に出す問題ではない。人間として健康に生きることができるかどうかに国境はない。空気に国境がないように。

慈眼寺へ(昨日の続き)

ツアーの後半で、塩沼亮潤という方が住職をなさっている慈眼寺というところを訪れた。先にバスの中で渡されたパンフレットを読んでびっくり。住職は行者の修行でも最も厳しい部類に入る「大峯千日回峰行満行」を達成し、「大あじゃり」になった方だという。どれ程満行が難しいかというと1300年の歴史の中で、塩沼住職が二人目ということからもわかる。私は大峯山で(正しくは大峯山は日本で唯一女人禁制なので、麓の龍泉寺で)池修行や滝修行をさせていただき、大峯山から良い気を頂いたと思っている。

盆栽の禁欲的イメージが修験道に重なる。

盆栽の禁欲的イメージが修験道に重なる。

まさか奈良県から遠く離れた仙台で、大峯山とご縁のあるお寺を訪れることになろうとは。役小角につながる修験道の寺の中でも、本尊を蔵王権現にすえる大変珍しいお寺だった。焚いていただけるので、護摩木にお願い事を書き、塩沼住職の本を購入した。日曜日ではないのでお会いできることはなかったけれど、本の表紙に載っていた住職の、厳しい修行を乗り越えてこられた方とはとても思えない、若々しい青年のような明るいお顔が印象に残った。「千日回峰行」のことが書いてある本を帰りの新幹線の中で読んで、やはり、命をかけた厳しい行だったんだということがよくわかった。

まさかの仙台

札幌の続きで、一度東京に帰って気功教室とピアノのリハーサルをこなしてから、仙台に向かった。観光らしい観光はしていないので、東京に帰る日に「びゅうばす(何故か平仮名)定義と秋保・作並号」という観光バスに乗った。正直、全く期待していなかった。なにしろお値段も4千円以下とお安かった。

曼珠沙華が盛りだった。

曼珠沙華が盛りだった。

ところがこれが、今時珍しく採算度外視のような旅行で、参加した方たちで、「これはお得だった」と喜び合った。お寺二つ、ニッカウイスキー仙台工場、滝めぐりと普通だったら行かない所も連れて行ってもらい、お天気も雨が降るはずが、一番始めに訪れた「定義如来西方寺」を出た後は段々と良くなり、遂に秋晴れになってしまった。郷土料理の昼食、アルコールの試飲、おやつに「竹豆腐」と「さいちのおはぎ」と食べる方も大満足。桜、紅葉の季節は凄く綺麗だそうで、I want to strongly recomment you to take this tour. 皆さんも仙台に行った時は是非利用してください。

ここで訪れた「慈眼寺」との出会いは今の私にとって、大切な意味を持った。その話は又明日。(12時を過ぎてしまったので、寝て起きてから)

 

 

 

 

地下に広がる街

すすきの歌

すすきの歌

札幌駅の地下街には正直驚いた。何しろ札幌駅の中だけでも、大丸、エスタ、パセオ、アピタといろいろな商業施設とつながっていて迷子になりそうだし、(方向音痴なので、どこに行っても迷子になるが)札幌駅から伸びた地下鉄の大通り駅までの通路の両側にも喫茶店や出店、展覧会や展示場が続き、このスケールは東京にもないな、と感じた。映画館もあるので、あと劇場やコンサートホールがくれば文化的にも完璧かもしれない。しかしこのせいで、少し前まで栄えていた大通り公園に面していた店舗に、客がとても少なくなってしまったと聞いた。丸亀で見たようなシャッター通りにならなければいいけれど、と心配した。

北海道はどこに行っても広々としていて気持ちがいい。そして札幌は垢抜けたセンスがある。でもこれはあくまで旅行者の視点。東京は色々なものがぎゅっと詰まっていて便利だし、冬の厳しさはない。文化的なものも毎日事欠かない、と北海道から来た人は言うだろう。私の北海道への憧れは、又スキーをしたいという願望と、東京の夏の暑さが根底にあるのは多分間違いない。

 

札幌で出会った子供達

秋の風物誌

秋の風物誌

所用があって札幌に行ってきた。(実はたまっていたマイルの期限が迫っていたので、7月の時点で札幌行きを思い立った。)息子の結婚式のことも気になるが、8/29の午前中に結婚することを聞かされ、その夜に来年3月に孫が現れると知らされたので、その前に組んでしまった計画は変更しようがない。「車は急には止まれない」のだ。ただでさえ駆け回っているのに、札幌から帰ってきて更に忙しく、今日は施設の母の足元でしばらく寝てしまった。

札幌では可愛い子供達に出会うことができた。一人は空港のラーメン横丁で隣に抱かれた赤ちゃんが私にしきりに笑いかける。「赤ちゃんは人のオーラを見て笑うことがある」と読んだことがあったので、そんなに綺麗なオーラが出てるのかな、と気をよくして私も手を振ったりして相手をした。どんな向きに抱かれても私のほうを見て笑ってご飯をたべないので、とうとう見えない席に連れていかれてしまった。

二人目はモエレ沼公園のこと。赤ちゃんが泣き出したら、3歳くらいのお兄ちゃんが一生懸命哺乳瓶を赤ちゃんの口にあててのませようとしているのを見て、すっかり感心してしまった。ごく自然にしているので普通だったらまだ自分が甘えたい年なのに、余程両親の愛情が足りているんだろうと感じた。

三人目はバス亭で出会った5ヶ月の赤ちゃん。最初の赤ちゃんと違って私の顔を大人のような顔でじーっと見つめる。「随分、きりっとした赤ちゃんですね。」と言ったら「よくそう言われます。」とおっしゃっていた。三人とも男の赤ちゃんだった。この時代に生まれてくるのはとても勇気ある子だと聞いている。すくすくと育って、たくましい、しっかりした大人になって日本をリードして欲しい、と心から思った。

向き

好きなこととは

ティエンクン鍾乳洞内、日本では考えられないライトアップ。幻想的ではありました。

ティエンクン鍾乳洞内、日本では考えられないライトアップ。幻想的ではありました。

仕事を始めようとした時、「今から?」と驚かれた。でも私は、以前スキーバスの中で出会った、ご高齢のご婦人との会話がいつも胸の中にある。「今もスキーをされるんですか?」という少々不躾な問いに「そうですよ。私は60からスキーを始めまして70過ぎましたが、個人指導してもらって今では上級者コースも滑れます。夢をあきらめないことです。そのために社長業も夢中でやりました。」とてもシンプルな考え方に圧倒された。

何かしたいと思った時、(反社会的なことは論外だけれど)その気持ちを純粋に大事にすればいいのだ、と思った。人の思惑、年齢、それが収入につながるか、どこまで上達するかは二の次にして、やって楽しみ心を遊ばせることが大事と気づいた。生活の手段は別に講じなければならないけれど、時間やお金を度外視して夢中になれるものがあれば、幸せな時が過ごせる。こういう時間がこれから増えていけばいいな、と思う。

たまには気功教室のこと

昭島Ⅱ期に生きのいい(?)男性が何度か参加してくれている。屈託がなく、明るいので私としては面白くてしょうがない。若い方で、息子と同じくらいなのでいけないと思いつつ、ついからかってみたくなる。彼は求道中なのでいつまでKIRAKUに通ってくれるかわからないが、いいご縁だったと思うようにしたい。

しばらくハロン湾の景色をどうぞ。

しばらくハロン湾の景色をどうぞ。

この前の国立教室では二人から気を出した手であおいでもらったが、一人からは暖かい気が、もう一人からはさわやかな気を送ってもらい大変気持ちよく、山あいの温泉に入っているような気分になった。

昭島の方たちも個性的な気の能力を発揮しだし、講師冥利に尽きる次第である。

教育の役割

「静岡知事が、平成25年度全国学力テストで県内公立小学校の国語Aの成績が全国最下位だった結果を受け、成績が悪かった100校の校長名を公表したいとの意向」の記事を読んでため息が出た。今時教育の価値を点数に求めること自体時代遅れだし、文科省もそれは「校長をみせしめにするための行為」というのだったら、「最下位」という烙印を押す「県をみせしめにする」成績の公表をやめればいい。

どんなに知識を詰め込んだって、だからといって職にありつける時代でないことはもうわかっているはず。勿論知識は必要だが、あくまでそれは人間形成の一端で、今の日本の教育に必要なのは、知識をもとに自分で判断したり考えたりする力や想像力を養うこと、健全な精神のための情操教育ではないのか。

今日も暑かった。ハロン湾の風景で少しの涼を。

今日も暑かった。ハロン湾の風景で少しの涼を。

どう考えても教育の目的はどこかに行ってしまい、方向性も間違っているような気がする。「机上の学問」に終わらせないようにするためには「点数」で学校や校長先生をおいつめないで、(それはイコール子供を追い詰める)もっと子供が生きる力を身につけ、人間力がつくように多角的な視点で教育や学校を評価して欲しい。

ハノイで心に残ったこと

ハノイの旅行記を詳しく書くつもりだったが、長男が急に結婚することになり、(急に聞かされた)ばたばたと慌しく、日もたってしまったので今振り返って印象に残ったことだけを記しておこうと思う。

印象に残ったもの。ハノイ教会で日暮れて暗くなる中、明かりがともされて座っていた真横に浮き出たイエスとマリアのステンドグラス。自分でも思わぬ程感動した。キリスト教というわけではないが、その時、その場に精霊がいて下さる、と感じた。

文廟(昔の大学)の庭。どこでも「徳」は大事。

文廟(昔の大学)の庭。どこでも「徳」は大事。

ホーチミン廟で出会ったオレンジ色の中に横たわる The body であるホーチミンの穏やかでやさしい顔。第二次世界大戦、フランスからの独立戦争、ベトナム戦争、と戦争ばかりの歴史の中で、ホーチミンはベトナム民族解放の最高指導者と位置付けられている。主義の難しいことはよくわからないが、「ホーおじさん」の愛称で親しまれたという説明が一番しっくりくる自愛に満ちたお顔だった。

ただただ強権を持って国を治めれば、その時はいいかもしれないけれど亡くなった後も、こんなに慕われる政治家、日本国にいるかしら。いたいた聖徳太子。。。。。。

ドリアン先生の講義(続き)

この前の続きで「なんでも大事にすればいいというものではないのだ」に関する考察を少し深めてみた。患い(わずらい・心を取り乱すもの)を心に入れないで門前払いするのは心の平静を保つには確かに大切なことだ。でも人間はどうしても感情があるので、取り入れて心にマイナスのものを作ってしまう。

桂林の様なハロン湾の風景

桂林の様なハロン湾の風景

それを相手のせいにしないで、起爆剤にして努力することができるかもしれない。マイナスをプラスに変える方法だ。又はそういう自分をみつめて己を知り、苦しんだ後乗り越え、一段と成長できるかもしれない。分析した上で心から追い出すことができたなら、それが一番いいような気がする。

もし、現実をよく見ないで自分の弱さから都合の悪いことを心から追い出してしまったら、「それは違う」と老子は嘆くだろう。情報過多でその情報も一人一人が吟味しなければいけない時代。私たちは「患い」にしっかり対処していかなければ生き残れないだろう。老子の言葉を今に生かす工夫を考えてみた。